昨年(2018年)は日本とインドネシアが1958年1月20日に「日・インドネシア平和条約」に署名し、国交が樹立されてから60年の節目の年でした。
1958年といえば、日本では、東京タワーが竣工、本州と九州を道路で結ぶ関門トンネルが開通、富士重工業が「スバル360」を発売、東京通信工業が「ソニー」に社名を変更するなど、高度経済成長の初期に当たります。東南アジア方面の市場開拓は、賠償問題が解決していないことが進出の障害になっていました。
一方、インドネシアは、内乱の勃発と、反乱勢力を支援するアメリカはじめ自由主義諸国の介入によって、国家解体の危機に直面していました。太平洋戦争のあと、オランダとの4年にわたる戦争で、インドネシアは独立を果たすことができました。しかしジャワ島を中心に統合した国家の矛盾、それ以外の島々(外島)からの反発、また国軍内部の権力闘争が深刻化していました。
こうした厳しい国際情勢の中での国交回復、賠償交渉でした。
1958年に訪日したスカルノ大統領と会談する岸信介首相 出典:山武の世界史 http://yamatake19.exblog.jp
1958年(昭和33年)4月15日に平和条約とともに発効した賠償協定では、1970年(昭和45年)までの12年間で、総額803億880万円(2億2308万ドル相当)を、日本人の役務および日本の製品で支払う約束をしました。
具体的には大型ダム、橋梁の建設、合板、製紙、紡績などの工場建設、ホテルなどの建設を日本が請け負う形で、また日本の船舶、鉄道車両、自動車などの購入費用に充てられました。そのほか、インドネシアからの留学生(1960~1965年に385人)の招聘にも使われました。
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