筆者(松井和久)は、2021年6月より、NNA ASIAのインドネシア版に月2回(第1・3火曜日)に『続・インドネシア政経ウォッチ』を連載中です。800字程度の短い読み物として執筆しています。NNAとの契約では、掲載後1ヵ月以降に転載可能となっています。すでに読まれた方もいらっしゃるかと思いますが、過去記事のインデックスとしても使えると思いますので、ご活用ください。
- 第51回(2023年7月4日) 犯罪化は政府批判封じの予防手段
- 第52回(2023年7月18日)下流産業振興への批判
- 第53回(2022年8月1日) ニッケル生産州で貧困人口率が上昇
- 第54回(2023年8月16日)汚職撲滅委員会が国軍に謝罪
- 第55回(2023年9月5日) 大統領候補への政党連立が激変
『NNA ASIA: 2023年7月4日付』掲載記事 http://www.nna.jp/
『続・インドネシア政経ウォッチ』第51回
犯罪化は政府批判封じの予防手段
昨今、ちまたでは「犯罪化」(クリミナリサシ)という言葉をよく目にする感がある。以前から、環境破壊を理由に国家開発プロジェクトに反対する慣習法コミュニティー住民が罪を犯したとして犯罪者にされる、すなわち犯罪化されることがあった。今でも、ニッケル製錬などに伴う環境悪化を訴える住民が、国家開発プロジェクトの進行を妨げたとして犯罪化され、法的処罰の対象となるケースが報じられる。
2023年6月26 日、国家警察のアグス・アンドリアント犯罪捜査局長は、虚偽情報を広めた罪で、元法務人権副大臣で国家行政法学者のデニー・インドラマナ氏を取り調べ中であると発表した。デニー氏は憲法裁判所が2024 年総選挙の投票方式の変更、すなわち、候補者を選ぶ非拘束名簿式比例代表制から政党名のみを選ぶ拘束名簿式比例代表制への変更を決めたとするうその情報を流布させた、という罪である。拘束名簿式への変更は与党第1党の闘争民主党が憲法裁判所へ求めていたものである。デニー氏は裁判官が6対3で変更を決定としたが、憲法裁判所は1対7で変更しなかったとしている。デニー氏側は自由な言論へ介入し犯罪化するものとして批判している。
またデニー氏は、ジョコ・ウィドド大統領のシナリオを次のように説明して批判した。すなわち、当初は大統領任期延長や選挙延期を画策、国家機関を使って政敵を退け、憲法裁の裁判官を用意して大統領選挙に備え、大統領候補のアニス氏を汚職容疑で潰し、ムルドコ大統領首席補佐官に民主党を乗っ取らせる、という過程を経て、大統領候補としてはガンジャル氏を支持、プラボウォ氏を予備、アニス氏を排除、というシナリオである。
大統領周辺からすれば、デニー氏はもちろん好ましからぬ人物であり、彼の言論が広まる前に駆除したいはずである。デニー氏の憲法裁に関する情報はメディアを驚かせ、拘束名簿式に反対する多くの政党を動揺させた。政治的な影響が大きいと判断し、大統領周辺や憲法裁が後づけで軌道修正した可能性もあり得る。犯罪化は激しい政府批判を封じるための予防手段である。
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『NNA ASIA: 2023年7月18日付』掲載記事 http://www.nna.jp/
『続・インドネシア政経ウォッチ』第52回
下流産業振興への批判
ジョコ・ウィドド政権は、国内の天然資源を加工して製品化し、付加価値を高める下流産業振興を国家の最重要戦略と位置づけている。2023年1月に発表された2040 年までの下流産業戦略投資ロードマップでは、石炭、ニッケル、オイルパーム、海藻など21 産品・8産業の下流産業に必要な投資額を5,453 億米ドルと見込む。最も注目される鉱業は、国家中期開発計画によれば、製錬所による下流産業振興を推進するとし、その数はニッケル22 カ所、ボーキサイト5ヵ所、鉄2ヵ所、鉛1ヵ所、銅1ヵ所である。そして、2022 年1月のニッケル、同年6月のボーキサイトに続いて、錫、銅などその他の鉱産物も輸出禁止を計画している。
これに対して、6月25 日発表の国際通貨基金(IMF)理事会の声明は、インドネシアの下流産業振興への意欲を付加価値向上、外資誘致、技術移転などで好感する一方、そのための輸出規制についてはさらなる費用=便益分析が必要で、国境を越えて波及するマイナス効果を抑えるため、段階的な緩和と他の鉱産物への不拡大を求めた。多国間貿易システムの不安定化を招く可能性があるとして、鉱産物輸出禁止による下流産業振興に否定的な見解を示した形である。
欧州連合(EU)は、インドネシアのニッケル輸出禁止がステンレス鋼生産に必要な原材料へのアクセスを不当に制限させたとして世界貿易機関(WTO)へ提訴し、昨年11 月、WTOはEUの訴えを認める決定を下した。インドネシアはWTO決定に反発し、IMFの見解後も、鉱産物輸出禁止を伴う下流産業振興を断行する姿勢を堅持している。一部の閣僚は、先進国や国際機関が他国の輸出政策に介入して経済成長を妨げようとするのは現代の植民地主義だと批判した。
他方、国内でもユスフ・カラ元副大統領などから批判がある。それは、下流産業振興自体には同意しつつ、恩恵を受けるのは国内企業ではなく中国であり、資本集約的で雇用創出が少ない、との批判である。現状では、中国抜きで下流産業振興を進めることは不可能であり、EUやIMFに対抗する鉱産物輸出禁止策は、結果的に中国を利する形とならざるを得ない。
ニッケル鉱の採掘。(出所)https://kabardpr.com/polemik-ekspor-bijih-nikel-indonesia-buntung-cina/
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『NNA ASIA: 2023年8月1日付』掲載記事 http://www.nna.jp/
『続・インドネシア政経ウォッチ』第53回
ニッケル生産州で貧困人口率が上昇
中央統計庁は毎年2回、3月と9月の貧困人口状況を発表する。2023年7月17 日発表の今年3月の貧困人口は2,590 万人で、貧困人口率は9.36%だった。これは2022 年3月の9.54%、同年9月の9.57%より低い数字で、貧困人口率の低下は5%台の経済成長による成果と考えられる。
実際、大半の州で貧困人口率は2022 年9月より低下したが、逆に西ヌサトゥンガラ、北スラウェシ、中スラウェシ、南スラウェシ、東南スラウェシ、マルク、北マルクでは上昇した。すなわち、下流産業振興をリードするニッケル生産州で貧困人口率が上昇したのである。
たとえば、中スラウェシでは貧困人口率が2022 年9月の12.3%から今年3月は12.41%へ、東南スラウェシでは11.27%から11.43%へ、北マルクでは6.37%から6.46%へ上昇した。これらの州では2022 年3月から貧困人口率の上昇が続き、とくに東南スラウェシは都市部でも農村部でも一様に上昇し続けている。一方で、ニッケル生産州は、年率10%以上の高い経済成長を記録し、ニッケル鉱山や製錬所で働くために域外から多数の労働者が流入している。地方政府の税収も増え、一見すると、地域経済は活況を呈しているかのように見える。
では、こうした矛盾するかのような状況はなぜ起こっているのか。考えられるのは、まず、ニッケル生産や製錬は基本的に資本集約産業で、雇用創出が限定的なことである。地元住民も域外からの労働者の多くも未熟練であり、就業は周縁的な部分に限られる。また、ニッケル生産・製錬は環境破壊・汚染などの外部不経済を発生させる。粉じんや埃などによる健康被害のほか、廃水等による水質悪化で漁業など住民の生業が維持できない事態も起こり得る。さらに、物価急騰も貧困人口率を上昇させた要因のひとつだろう。
ニッケル生産・製錬の現場は首都ジャカルタやジャワ島から遠く離れ、多くの国民が知ることはない。政府はジャワ島外でのニッケル生産・製錬をジャワ島との格差是正の成果と喧伝するが、その足元で貧困人口率が上昇する現実は無視できない。現場で何が起こっているのか、社会変化を注視していく必要がある。
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『NNA ASIA: 2023年8月16日付』掲載記事 http://www.nna.jp/
『続・インドネシア政経ウォッチ』第54回
汚職撲滅委員会が国軍に謝罪
2023年7月25 日、汚職撲滅委員会(KPK)は、国家捜索救難庁(Basarnas)の装備品をめぐる贈収賄の疑いで12 人を現行犯逮捕し、うち5人を容疑者に指定した。そのなかには2021~23 年に同庁長官だった現役空軍少将2人が含まれ、民間企業から883 億ルピアの賄賂を受け取ったとされる。これは「コマンド資金」と呼ばれ、プロジェクト総額の10%相当のコミッションと見られる。
これに対して7月28 日、国軍憲兵隊長と部下がKPKを訪れ、2人の逮捕に抗議して謝罪を強く求め、応じなければ憲兵隊を派遣すると迫った。KPK幹部は面会後に記者会見を開き、現役軍人を現行犯逮捕した件で国軍司令官に謝罪した。結局、2人の身柄は国軍へ移された。
なぜKPKは謝罪したのか。実は、現役軍人の罪は軍事法廷で裁くという1997 年軍事法廷法の規定が有効なのである。2004 年国軍法の第65 条2項では、軍事的な罪は軍事法廷で裁き、民事の罪は民事で裁くと規定されているが、同法の第74 条で、その規定は軍事法廷に関する新法の施行後に有効、と記されている。26 年前の軍事法廷法がまだ有効である以上、KPKは法的に現役軍人を逮捕できないことになる。現在、国会では2004 年国軍法改正が予定されており、同時に軍事法廷法の改正も必要との見解が出ている。
また、北スマトラ州では、第1陸軍区の法務部長ら40 人の軍人がメダン市警へ押しかけ、土地認証書類の署名偽造で逮捕された民間人の釈放を強く求めた。この人物は法務部長の知人だった。軍人の示威行動を受け、メダン市警は彼を釈放した。第1陸軍区司令官は、これは陸軍区としての行動ではないと否定した。
このように、国軍には自らを他より一段上の特別な存在と今も認識している様子がある。識者は軍のレフォルマシ(改革)は不十分と批判する。他方、現政権下では、軍人が退役せず現役のまま文民職に就く事例が目につくが、スハルト時代に社会政治機能も担った「軍の二重機能」の復活にも見える。民主化で力と利権を減じられ、多数の将校が滞留する国軍が、かつての栄光への憧憬(しょうけい)から自らを解き放つのは容易ではない。
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『NNA ASIA: 2023年9月5日付』掲載記事 http://www.nna.jp/
『続・インドネシア政経ウォッチ』第55回
大統領候補への政党連立が激変
事態は突然、激変した。2023年8月28 日時点では、有力大統領候補3人への政党支持が出そろったかに見えた。ガンジャル中ジャワ州知事支持は闘争民主党(PDIP)中心の4党、プラボウォ国防相支持はグリンドラ党と民族覚醒党(PKB)の統一インドネシア連合(KIB)とゴルカル党、そしてアニス前ジャカルタ首都特別州知事支持はナスデム党、民主党、福祉正義党の統一のための変革連合(KPP)だった。ところが8月31 日、アニス氏の副大統領候補にPKBのムハイミン党首が急浮上し、9月2日、アニス=ムハイミン組が公式発表となった。
急展開を主導したのはナスデム党のスルヤ・パロ党首である。アニス氏の支持率が低迷するなか、彼は票田の中・東ジャワに強いナフダトゥール・ウラマ(NU)系の副大統領候補を模索し、東ジャワ州のコフィファ知事や第4代大統領の娘のイエニー・ワヒド氏も想定していた。
では、プラボウォ氏支持のはずのPKBはなぜアニス氏へ寝返ったか。支持政党が増えたプラボウォ氏は、PKBの了承なしに連立の名称を先進インドネシア連合(KIM)へ変えた。PKBのムハイミン党首は自身を副大統領候補とするよう求めてきたが、可能性が低くなったとみて、ナスデム党のスルヤ・パロ党首の誘いに乗ったのである。
この急展開に激怒したのがナスデム党と連立を組んでいた民主党である。民主党はユドヨノ元大統領の長男であるアグス党首をアニス氏の副大統領候補とするよう求めてきた。民主党によれば、8月25 日にアグス党首を副大統領候補にするとの手書き書簡をアニス氏から受け取った。それを反故(ほご)にし、連立外のPKBのムハイミン党首と組んだアニス氏を「裏切り者」と厳しく批判し、アニス氏支持の撤回、連立離脱を決定した。もっとも、民主党は、副大統領候補はアニス氏に一任していたはずである。
こうして、プラボウォ氏支持の政党連立とアニス氏支持の政党連立は事実上解体した。副大統領候補を巡るエゴの張り合いがその原因である。大統領選挙はますます波風が立たなくなりそうだが、それはもちろんジョコ・ウィドド大統領の望む方向である。
『続・インドネシア政経ウォッチ』過去記事
- 第1回(2021年6月8日) 輝きを失った汚職撲滅委員会
- 第2回(2021年6月22日) 注目される税制改革案
- 第3回(2021年7月6日) ガルーダ・インドネシアの経営危機
- 第4回(2021年7月21日) 進まぬワクチン接種
- 第5回(2021年8月3日) くすぶる大統領批判
- 第6回(2021年8月18日) 経済回復は本物なのか
- 第7回(2021年9月7日) アフガニスタン政変の影響
- 第8回(2021年9月21日) インドネシアでの外資は主役交代なのか
- 第9回(2021年10月5日) アジス国会副議長の逮捕
- 第10回(2021年10月19日) 第20回国体、パプア州で開催
- 第11回(2021年11月2日) デジタル銀行は戦国時代に
- 第12回(2021年11月16日) 高速鉄道建設は止められない
- 第13回(2021年12月7日) 雇用創出法は違憲だが有効
- 第14回(2021年12月21日) ニッケル製錬所の新設を停止
- 第15回(2022年1月4日) 北ナトゥナ海は波高し
- 第16回(2022年1月18日) 石炭輸出禁止、すぐ再開の顛末
- 第17回(2022年2月2日) 新首都法案がスピード可決
- 第18回(2022年2月15日) 北カリマンタン州の工業団地
- 第19回(2022年3月1日) 鉱石採掘に係る土地紛争が急増
- 第20回(2022年3月15日) ロシア―ウクライナ問題への微妙な反応
- 第21回(2022年4月5日) 食用油価格高騰、大混乱の対応策
- 第22回(2022年4月19日) 大統領3期目シナリオは消えるのか
- 第23回(2022年5月10日) パーム油輸出を当面禁止と発表
- 第24回(2022年5月24日) 過去最高の貿易黒字を記録
- 第25回(2022年6月7日) インド太平洋経済枠組みへの微妙な反応
- 第26回(2022年6月21日) 五曜のパインの水曜日に内閣改造
- 第27回(2022年7月5日) 中央主導でパプア州から3州分立へ
- 第28回(2022年7月19日) 暴かれたACTの不正資金問題
- 第29回(2022年8月2日) コロナ禍でも投資実施額は過去最高
- 第30回(2022年8月16日) 第2四半期は追い風で5.44%成長
- 第31回(2022年9月6日) インフレ懸念と燃料価格値上げ
- 第32回(2022年9月20日) ビヨルカによる個人データ大量漏出
- 第33回(2022年10月4日) 大統領は副大統領候補になれるか
- 第34回(2022年10月18日) スタートアップ企業で解雇続出
- 第35回(2022年11月1日) 高まる法の執行状況への不満
- 第36回(2022年11月15日) 観光客数増加も第3四半期成長を後押し
- 第37回(2022年12月6日) 大統領支持者15万人集会の波紋
- 第38回(2022年12月20日) 政府悲願の刑法改正案が可決
- 第39回(2023年1月10日) 雇用創出法代替政令の発布
- 第40回(2023年1月24日) ニッケル製錬企業で暴動
- 第41回(2023年2月7日) 再び内閣改造、ナスデム党は閣外か
- 第42回(2023年2月21日) 計画殺人事件、動機不明のまま死刑判決
- 第43回(2022年3月7日) 2022 年は5.31% 成長、格差解消は疑問
- 第44回(2023年3月21日) 裁判所が総選挙延期の判決
- 第45回(2023年4月4日) 電動バイク・電気自動車への補助金付与
- 第46回(2023年4月18日) イスラエル問題はガンジャルの踏み絵
- 第47回(2023年5月2日) 闘争民主党はガンジャル氏を大統領候補に指名
- 第48回(2022年5月16日) 世界銀行がさらなる貧困削減へ提言
- 第49回(2023年6月6日) プラボウォ国防相の過去が問われない
- 第50回(2023年6月20日) 根強いロシア寄りの見解
- 第51回(2023年7月4日) 犯罪化は政府批判封じの予防手段
- 第52回(2023年7月18日) 下流産業振興への批判
- 第53回(2022年8月1日) ニッケル生産州で貧困人口率が上昇
- 第54回(2023年8月16日) 汚職撲滅委員会が国軍に謝罪
- 第55回(2023年9月5日) 大統領候補への政党連立が激変
(松井和久)
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