よりどりインドネシア

2023年11月08日号 vol.153

虎を放つ(太田りべか)

2023年11月08日 23:53 by Matsui-Glocal
2023年11月08日 23:53 by Matsui-Glocal

少し前のこと、日本の大学院で博士後期課程を終えられた若い研究者の方がスマランまで訪ねてきてくださった。博士論文で、作家エカ・クルニアワン(Eka Kurniawan)の小説『美は傷』(“Cantik Itu luka”)と『虎男』(“Lelaki Harimau”)を中心に、暴力をめぐる共同体の想像力について論じたということで、連絡をくださり、インドネシアに調査のため来られた際に、わざわざ足を伸ばしてくださったのである。

そもそもその方に最初にエカ・クルニアワンの作品を紹介したのは、その方の先輩にあたるインドネシア人の元留学生で、私の旧知の人でもあった。十数年前に私が『美は傷』の日本語訳を出版したときに、原書の版元であるグラメディア社の編集部にいた人で、後に日本の大学院に留学され、修士論文では『美は傷』を素材として取り上げたいとのことで、インドネシアに一時帰国されたときにスマランまで会いに来てくださった。その後、博士課程まで終えられてインドネシアに戻られ、今は各方面で活躍されている。ついでながら、私が日本の小説をインドネシア語に翻訳する仕事をいただけるようになったのも、もとはといえば彼女が最初に翻訳の仕事を紹介してくださったのがきっかけだった。

そんな縁もあって、このたび日本の若い研究者の方が『美は傷』絡みで訪ねてきてくださり、時を経てロングパスを受け取ったようで嬉しくなった。

その方との話の中で、『虎男』の主人公の青年マルギオの身の内に棲む白い虎が雌であることについて、ジェンダーが逆転している点がおもしろいとおっしゃっていたのが印象に残った。人虎や虎憑きについての伝説は、スマトラやジャワなどにいくつもあるようだが、そういえば憑かれた人間と憑いた虎とのジェンダーが逆転しているケースは聞いたことがない気がする。というか、憑いた虎の雌雄がはっきり特定されている伝説そのものが、ほとんどないのかもしれない。

そこで思い出したのが、『よりどりインドネシア』第147号の拙稿で取り上げたインタン・パラマディタの小説『千の業火の夜』(“Malam Seribu Jahanam”)に登場する三人娘の祖母の話である。スマトラ出身のこの祖母も、身の内に虎が棲む「虎人間」なのだが、その虎は雄で、ここでも本人と虎のジェンダーが逆転しているのだ。

このジェンダー逆転現象が見られる上記のふたつのケースはいずれも創作なので、いつか機会があれば逆転の理由をおふたりの作家に尋ねてみたいところだが、まずはスマトラとジャワの人虎伝説のいくつかに目を通してみたい。

●人虎伝説

先述の研究者、梅垣緑氏が指摘しているように、エカ・クルニアワンの『虎男』の中で、主人公マルギオが殺人を犯した後「シリワンギ師団」の軍司令部に連れて行かれるところから、この小説の舞台は同師団の軍管区である西ジャワ州の村と想像でき、西ジャワ州つまりスンダ地方のシリワンギ王と白い虎の伝説が、マルギオの身の内に白い虎が棲むという着想の源泉となったことが推測される。

シリワンギ王はスンダのパジャジャラン王国の黄金期を築いたとされる伝説的王で、スンダの歴史や文芸作品に名の残る王たちの中のだれがシリワンギ王なのかについては、いくつかの説があるようだ。そのうちのひとつが、1357年にスンダ王国と東ジャワのマジャパヒト王国との間に起きたブバットの戦で討死したリンガブアワナ王、別名ワンギ王とする説だ。

いずれにせよ、シリワンギ王にまつわる伝説でもっともよく知られているもののひとつが、シリワンギ王と白い虎の話だ。シリワンギ王の治めるスンダ王国が、その息子や孫の治めるチレボンとバンテンの王国に攻められ、スンダの都パクアン・パジャジャランが陥落した後、シリワンギ王は息子や孫との戦いを避けるために都の南のサラック山、または南海岸近くのサンチャンの森に逃れ、そこで寂滅して聖なる虎に姿を変えた。

スンダ王国が滅んだ後、都だったパクアン・パジャジャランも打ち捨てられ、その周りを囲む山々は実際に虎の生息地になっていたらしい。1687年にオランダの探検隊がパクアンの跡地に到達したが、探検隊のひとりが虎に襲われて死亡したという記録が残っているという。また王宮の遺跡のあたりは多くの虎に守られていたと報告されている。

梅垣氏が論文の中で、『虎男』の創作のきっかけについてのエカ・クルニアワンの談話を紹介しているが、それによると、西ジャワ州タシクマラヤ出身の友人の下宿から大きな物音がしたので、どうしたのかと尋ねたところ、その友人の叔父さんが虎を送り込んできて、そのせいで転んだのだという。そしてその友人と「危険が迫ったとき白い虎を降ろすことができるとまだ信じている村の人たちについての話」をしたと語っている。

人狼のような獣人伝説のひとつである人虎や虎憑きの話は、スマトラやジャワのあちこちにあるようで、さまざまなバリエーションがあるものの、一種の呪術または魔術として虎に変身したり、使い魔のように使役したりする能力を持った人がいるという話は、今も比較的身近なところにあるらしい。

ウィキペディア・インドネシア語版の“Siluman harimau”の項の説明によると、もとは現実の虎の攻撃から身を守るための魔術で、ひとつの世代から次の世代へと引き継がれていくものだ。そしてそれを身につけた者は、死ぬまでにその魔術を次の世代に引き継がせるか、捨ててしまわねばならないという。

また同日本語版の「人虎」の項では、ジャワに「マガン・ガドゥンガン(magan gadungan)という虎人の伝説がある」とされている。この「マガン」は「マチャン(macan:虎)」のことではないかと思われるが、虎になる「魔法が発動されると、体が巨大化して全身が黄色と黒の虎縞で覆われてやがて虎の姿になり、夜中に人を襲って食する。だが、これによって虎になった者の呪いは解かれて、替わって襲われた者が呪いを受けて生き延びて虎に変身して次の犠牲者を探すことになる」という(出典はローズ・キャロル『世界の怪物・神獣事典』松村一男監訳、原書房)。

「ガドゥンガン」は偽の、化物の、化身した、というような意味で、東ジャワ州の南海岸近くにはガドゥンガンという名前の村落が実在し、化虎にまつわる言い伝えがある。かつてその地には霊虎が棲んでいて、人間が開墾しようとしても必ずなんらかの悲劇に襲われ、いつまでも荒地のままだった。あるときタルサンという名の超常能力の持ち主がやってきて、格闘の末にその虎を屈服させたが、虎をそこから追うことはせず、その地の守護者になるよう命じた。それ以来、危険が迫るとその虎が出現して村人たちに知らせるようになった。

スマトラ島の人虎伝説のひとつに、パダンの南方のクリンチ山に棲む「チンダク」の言い伝えがある。チンダクは半人半虎で、人と虎との間の関係を良好に保つ役割を担っているという。チンダクになるための魔力は、霊力の強い者に世襲されていくといわれている。チンダクはクリンチ山の守護者でもある。同じくスマトラ島西部のブンクルに伝わる話では、地域社会の状態が悪くなると虎が姿を現し、家畜などを襲って人々に警告を与えるという。

人に危害を与える人虎や虎憑きの言い伝えもあるが、霊虎にまつわる伝説には、どちらかというと守護神的役割を担わされているものの方が多いように思える。

(以下に続く)

  • マルギオの虎
  • ヴィクトリアの虎
  • 文芸対話プロジェクト“YOMU”トークセッション
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