よりどりインドネシア

2023年07月23日号 vol.146

いんどねしあ風土記(47):史跡で辿る独立宣言前夜 ~ジャカルタ首都特別州、西ジャワ州~(横山裕一)

2023年07月23日 23:04 by Matsui-Glocal
2023年07月23日 23:04 by Matsui-Glocal

毎年8月になるとインドネシアは紅白の国旗や幟が掲げられ、17日の独立記念日に向けて祝賀ムードが高まる。約350年間にわたりオランダや英国、そして日本の支配を受けてきたインドネシア人にとって、独立記念日は独自国家としての誇りを確認する日でもあり、独立史は学校教育をはじめ様々な形で感慨をもって語り継がれている。1945年8月17日の独立宣言に向けては直前まで軍政支配していた日本も深く関わりを持ち、その記録は、多くの史跡が現在では博物館などとして残され、語り継がれている。日イ国交65周年の2023年、改めて史跡を巡りながら独立宣言の経緯を辿る。

●高揚する活動家らの独立意欲 45年闘争博物館より

1945年8月15日、日本敗戦の報を受けて、日本軍政支配下だったインドネシアの独立青年活動家の間では即座に独立宣言をすべきとの声が高まった。こうした日本軍政下の時代から独立宣言、独立戦争を経て1949年独立が国際的に認められるまでの経緯が資料と共にまとめられたのが中央ジャカルタ・メンテン地区にある45年闘争博物館(1974年~)である。

45年闘争博物館(中央ジャカルタ・メンテン)

同博物館は建物自体が独立史の舞台としての歩みを持っている。始まりはオランダ植民地時代の1938年、オランダ人女性の経営によるホテル(Hotel Schomper)として建設された。当時はバタヴィア(当時のジャカルタ)で最も豪華なホテルとして、外国人商人や各国高官らが宿泊したという。1942年、日本軍の侵攻と共にホテルも日本軍宣伝部に接収される。このため現在の同博物館には日本軍政下の住民に対するプロパガンダポスターも14枚展示されている。ポスターは日本語とインドネシア語表記で、日本語学習の奨励や兵補募集、日本の正当性などが呼びかけられている。

館内展示の日本軍宣伝部のプロパガンダポスター(写真上)とスカルノ・ハッタ像(写真下)

1942年7月、日本軍政はこの建物をインドネシアの次世代指導者や政治家養成所として青年活動家に開放する。その後、日本軍政指導のもと結成されたインドネシア人ナショナリストらの組織(PUTERA、後のジャワ奉公会)本部が置かれた。日本軍としての意図は組織を含めて日本軍政を支援するための本部だったが、実質的にはインドネシア独立を目指す青年活動家の本拠地としての色合いが強かったという。この独立青年活動家たちは通称として、建物がある地名番地から「メンテン31」とも呼ばれ、アダム・マリク、スカルニ、ハエルル・サレらが名を連ねていた。ここにはインドネシア独立運動の中心人物で後の初代正副大統領となるスカルノとモハマド・ハッタも頻繁に訪れ、青年活動家と情報交換や議論を繰り返したとされている。

1945年8月15日、日本の無条件降伏による第二次世界大戦での敗戦の報が入ると、「メンテン31」のメンバーたちは一刻も早く独自でインドネシアの独立宣言をすべきとの方針を固める。これを受けて同日深夜、メンバーはスカルノの自宅を訪れスカルノとハッタに即時独立宣言するよう求めるが、スカルノとハッタはこれまで日本軍政のもと段階を経てきた流れで独立宣言へと進めるべきだとの考えから物別れとなる。

このため「メンテン31」のメンバーは翌16日未明、強硬手段をとった。後の時代にルンガスデンクロック事件とも呼ばれる、スカルノとハッタの拉致監禁事件である。結果的にこの事件が、日本が敗戦した8月15日のわずか2日後にインドネシア独立が早々に宣言された要因の一つともなっている。同事件を含め、独立急進派の青年活動家「メンテン31」メンバーによる一連のシナリオは、現在の45年闘争博物館である建物で計画されたといわれていて、同博物館は現在の一般のインドネシア人にも認知度は低いものの重要な意味を持った史跡の一つである。

45年闘争博物館入口にあるスカルノ、ハッタと「メンテン31」メンバーの肖像銅板。

●ルンガスデンクロック事件 ~スカルノ隔離博物館より

スカルノとハッタを拉致したのは、「メンテン31」メンバーのスカルニ、ハイルル・サレ、ウィカナ、アイディットらだった。8月16日未明、2台の車でまずはハッタを、次にスカルノとファトマワティ夫人、当時赤子の長男グントゥルの家族3人を拉致し、一路ジャカルタ東郊外の西ジャワ州カラワンのルンガスデンクロックへと向かった。途中で軍用トラックに乗り換える念の入れ用だった。ジャカルタ中心部から直線距離でも60キロ以上あり、現在でも車で高速道路を使用しても約2時間はかかる遠隔地である。

スカルノとハッタが拉致監禁されたルンガスデンクロックの民家(スカルノ隔離博物館)

早朝6時頃、一行はルンガスデンクロックに到着し、地元の華人、ジアウ・キー・シオンの自宅に4人を監禁した。ルンガスデンクロックは当時、日本軍が住民で組織させた郷土防衛軍(ペタ/PETA)の管理下にあり、自宅を監禁場所に提供した華人も郷土防衛軍に属していたという。郷土防衛軍は日本軍下の組織だったにもかかわらず、独立青年活動家に協力していたことからも、当時、一部はすでに独立へ向け独自の意思を持っていたことが窺える。

この華人の自宅家屋が現在も残され、スカルノ隔離博物館として一般公開されている。奥行きのある平屋建てで、当時スカルノ家族やハッタが休息用にあてがわれた部屋などの様子を見ることができる。家屋を所有する華人の子孫によると、この家屋はスカルノとハッタが隔離された当時は現在の場所ではなく、約200メートル離れた川岸にあったという。その後、河岸の侵食に伴い、現在の場所に家屋がそのまま移動、一部補修されている。

現在地に移転する前の家屋写真(宣言文起草博物館で撮影)

青年活動家らがスカルノとハッタを監禁した理由は、日本傀儡によるものではなく民族独自の即時独立宣言を促すよう改めて説得するためで、ルンガスデンクロックという遠隔地まで連れて行ったのは、スカルノとハッタに対する日本軍政からの影響を遮るためだった。さらに青年活動家らは独立のため日本陸軍に対して武装蜂起の計画も進めていて、その際、陸軍がスカルノとハッタを人質にとることも考えられ、それを回避するためでもあった。

ルンガスデンクロックで青年活動家らの説得に対し、スカルノとハッタは再び即時の独立宣言を拒んだ。この背景には約1週間前、スカルノとハッタがベトナムに駐留する寺内寿一南方軍総司令官に呼ばれ、日本政府がインドネシア独立を許可した決定を告げられていたことも作用していたとみられる。この際、スカルノらは寺内総司令官に対して、日本軍政下で組織されたインドネシア独立準備委員会(PPKI)の会議が予定されている8月24日を独立宣言実施の目安とする意向を伝えてもいた。

時にジャカルタでは緊張が高まっていた。スカルノとハッタが行方不明になったことと、独立急進派の青年活動家らにより武装蜂起の準備が進められていたためだ。これらを知ったインドネシア独立準備委員会(PPKI)の顧問だったアフマド・スバルジョ(後のインドネシア初代外務大臣)は青年活動家からスカルノとハッタの行方を聞き出し、ルンガスデンクロックへと向かった。

ルンガスデンクロックに到着したスバルジョは、青年活動家の中心人物でもあったスカルニに対して、「明日(8月17日)午前中には独立宣言させるよう、命をかけてでも説得する」ことを条件にスカルノとハッタをジャカルタに戻すよう交渉し、拉致監禁を解くことが決まる。

拉致監禁はわずか半日で終了し、16日夕方、一行はルンガスデンクロックを後にしてジャカルタへと向かった。青年活動家による武装蜂起の計画やスバルジョからの報告、また拉致監禁からの解放のための条件などを踏まえ、スカルノとハッタはこの頃までには独立宣言を早期に実施する決意を固めていたものとみられる。

(以下に続く)

  • 独立宣言文起草の舞台 ~宣言文起草博物館(旧前田邸)より
  • そして、独立宣言 ~宣言者公園より
  • 博物館裏の喫茶室にて
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