私がインドネシアと関わるようになってまず驚いたのが、会話の中で使う呼称・敬称の豊富さでした。日本ではとりあえず『さん』か『先生』、あるいは『先輩』を使っていればよく、改まった場面で『様』が増えるくらいで、その使い分けに悩むことは特にありませんでした。
インドネシアでは、英語のミスターにあたるバパッ(Bapak)とミスにあたるイブ(Ibu)、それにお店の店員さんなどの比較的年若い男性・女性へのマス(Mas)・ンバッ(Mbak)、さらに私がホームステイした地域がスンダ地方だったために、スンダ語での男性への敬称アア(Aa)とテテ(Teteh)などをまずは覚えねばなりませんでした。年若い女性は一様にテテでいいのかといえばそうでもなく、例えば若くても学校の先生などの立場の人に対してはイブを使用するなど、相手との関係性、距離感、場所などで使い分けることが求められてきます。その煩雑さが、私にとっては魅力的でもあったのです。
さらに、ジャワ地方へ引っ越し、家庭に入るようになったことで、またスンダ地方とは異なる呼称の世界の奥深さが見えるようになりました。相変わらずその場その場で正しい使用が出来ているのかは甚だ自信がありませんが、一度ここで現在に私の周りにある色とりどりな呼称・敬称たちをまとめてみようと思います。
●一人称、二人称
呼称というと相手への呼びかけに注目しがちですが、その前にまず、自分自身を指していう言葉、一人称を見ていきましょう。
日本語は豊富な一人称が特徴と言われており、最もスタンダードな『私』の他にも『僕』『俺』『わし』『あたし』などなど・・・それぞれニュアンスの異なる一人称があります。特に僕、俺など、性別による使い分けがされているのは面白い点かもしれません。
インドネシア語では一人称については性別で区別することはありません。男女共有で以下のようなものがあります。
- サヤ(Saya):最もフォーマルな一人称。『私』。
- アク(Aku):ややくだけた一人称。『僕』のようなニュアンス。
サヤは最も無難ではありますが、フォーマルすぎる印象もあります。親しみのある一人称はアクで、日常会話ではこちらを使う人が多いでしょう。
また、ジャカルタ弁の一人称を使う人もいます。
- グア、グエ(Gua, Gue):くだけた一人称。『僕』、『俺』に相当?
ジャカルタから遠く離れたウォノソボですが、TVやインターネットでは非常によく使われているので耳慣れた言葉ではあります。しかしここであえてジャカルタ弁を使うのは、カッコつけや若干荒っぽい印象が拭えません。若い人でもリアルな会話で使う人はなかなかいないように思います。ジャカルタや都市部に長く住んでいてこちらに戻ってきた人など、なにかしらウォノソボの外の空気に影響された経験があると使いやすいのかもしれません。
また、一人称が複数の場合は以下になります。
- キタ(Kita):話し相手を含む『私たち』
- カミ(Kami):話し相手を含まない『私たち』、『わたくしども』
例えば複数人で旅行に行った話をしていたとして、その旅行に参加していた相手にはキタ、旅行には行かなかったけど旅行の思い出話を聞かせているような相手にはカミを使う・・・というような区別があります。ただし、これはあくまでフォーマルなルールであって、普段の会話では本来カミを使うべきケースでも一様にキタで済ませている方が多いように思います。カミをきちんと使うと、ややかしこまった印象さえ出るのです。このあたり、キタ・カミの使い分けについて、他の地域ではどうなっているのか興味があります。
さて、以上はインドネシア語(とジャカルタ弁)での呼称でしたが、ここは普段の会話はジャワ語がメインです。パダン人、バタック人など、ジャワ語話者ではない人が場にいて、みんなインドネシア語で喋ろうね、などと言っていても、10分と経たずにジャワ語に戻ってしまうほどにジャワ語は魂に根付いた言語なのです。
そのジャワ語では一人称は以下のものがあります。
- クロ(Kula):丁寧な一人称。フォーマルな場面や目上に人に対しての『私』。
- アク(Aku):ややくだけた一人称。
- ニョン(Nyong):ジャワ語の中でもバニュマサン(Bayumasan)と呼ばれる、中部ジャワ西部で使われる方言の一人称。標準ジャワ語のアクに当たる。
ジャワ語のバニュマサン(バニュマス方言)の分布はバニュマスを中心にブレベス、チラチャップ、トゥガル、プルバリンガ、バンジャルヌガラ、クブメンといった地域で使われています。そのバニュマサンの分布のおよそ東端がウォノソボあたりではないかと考えられているのです。それより西、特にジョグジャ方面へいくと標準ジャワ語となるため、ウォノソボはバニュマサンと標準ジャワ語の交錯する地域のようです。
同じジャワ語ですが、ここではなぜかアクの方がよりかしこまった印象があります。地元の気心知れた相手であればほぼ必ずニョンを使うことになります。近所の人でも年上相手であればクロです。
複数形での一人称は以下です。
- アワケ デウェ(Awake Dhewek)、もしくはデウェのみ:直訳すると、『自分の体』という意味になるのですが、それが自分自身、そして自分たち自身、つまり『私たち』になります。友人など親しい間柄で使われる、ややくだけた言い回しです。
ジャワ語ではあまり「話し相手を含むか含まないか」での『私たち』の使い分けはしないようです。もしくは、本来そうした使い分けをする言い回しもあるのかもしれませんが、この辺りではあまり一般的には用いられていないようでした。
一人称だけでもおよそこれくらいの種類のものをTPOで使い分けるわけです。しかも、これはあくまで「ウォノソボで日常的に頻繁に使うもの」に限定しているので、丁寧すぎて普段はほとんど使わないけれどもちろん意味は知っているというものも含むのならもっと多くなります。
次に二人称を見ていきましょう。あなた、君など、話し相手への直接の呼びかけの言葉です。インドネシア語では以下のようなものがあります。
- アンダ(Anda):『あなた』。フォーマルであり若干距離を置いた印象があるため日常会話よりも討論会などの場に向いている言い回し。
- カム(Kamu):『君』『お前』『あんた』といったニュアンス。親しい友人、同輩、子供などに対して。
- ディリム(Dirimu):『君自身』という意味。文学的ニュアンスなのでちょっとそういう雰囲気を出したいときに。
複数形はこちら。
- アンダ スカリアン(Anda Sekalian):『あなた方みなさん』、改まった言い回し。
- カリアン(Kalian):上記アンダスカリアンの略。『君たち』くらいのニュアンス、よく使われる。
ジャワ語ではこうなります。
- ジュヌンガン(Jenengan):丁寧な『あなた』。年上の人、初対面の人などに対して。
- サンペヤン(Sampeyan):丁寧だけれど親しみのある『あなた』。ジュヌンガンよりは距離感が近いがまだ礼儀のある言い方。
- デケ(Deke):『君』、『お前』。バニュマサンというよりウォノソボ特有の方言。一人称のニョンと合わせ、ニョン・デケはウォノソボの特徴と言われる。
ジャワ語で『君』『お前』に相当する言葉は、コウェ(Kowe)、シロ(Sira)、リコ(Rika)などその他諸々ありますが、ここではほぼ使われず、デケ一択なのだそうです。インドネシア語の『あなた』であるアンダがあまり使われないのに比べ、ジャワ語のジュヌンガン、サンペヤンは非常によく聞きます。
複数形ではカリアンを使うか、ジュヌンガンやサンペヤンを2回繰り返した『ジュヌンガン・ジュヌンガン』、『サンペヤン・サンペヤン』が一般的です。インドネシア語、ジャワ語では単語を2回繰り返して複数形にすることがあります。
また、相手への呼びかけに関して、上記の『あなた』『お前』以外に、インドネシア語やジャワ語では敬称を人称代名詞としても使います。つまり英語のミスター、ミス、または日本語の『先生』などのように、それだけで『あなた』という意味の言葉になるのです。そのため、『あなた』という言葉を使うよりは『お兄さん』『お姉さん』という呼びかけをした方が柔らかい印象になり、多用されます。次で各種の親族呼称と敬称を見ていきましょう。
(以下に続く)
- 親族呼称
- お父さん、お母さん
- お兄さん、お姉さん
- 弟、妹、子供
- おじいさん、おばあさん
- おじさん、おばさん
- 華人のお兄さん、お姉さん
- 職業、社会的地位での呼称
- 流行と文学的表現
- 厄介にして便利
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