よりどりインドネシア

2023年05月07日号 vol.141

ラデン・ウィジャヤとジャワ元寇伝(太田りべか)

2023年05月08日 00:12 by Matsui-Glocal
2023年05月08日 00:12 by Matsui-Glocal

インドネシア共和国の成立とそれに先立つ日本軍政期より前のヌサンタラを舞台にして日本の作家が書いた小説は、どれくらいあるのだろうか。山本兼一の『銀の島』や『ジパング島発見記』にマラッカやモルッカ諸島が少し出てくるが、登場人物たち(主にポルトガル人と日本人)が日本とインドのゴアの間を行き来する途上の寄港地という役回りに過ぎず、現地の人々のことが語られるわけではない。いわゆる大航海時代を背景とする小説なら、日本の作家たちもいろいろ書いているだろうから、そういうものを探して読んでみたいと思っている。

大航海時代よりさらに前のヌサンタラを舞台にしたもの、とりわけ現地の人々の視点から描いた物語となると、日本の作家の手になるものはあまりないかもしれない。そんな珍しい一冊の存在を轟英明さんが教えてくださった。中原洋著『苦い花梨 マジャパヒト — 元軍襲来・ジャワ戦記』(つげ書房新社刊)である。

帯に書かれた紹介文は次の通り。

知恵と勇気の勝利

1292年12月、中国・泉州より500隻2万人のジャワ遠征軍が出撃した。若き将軍ウィジャヤの下にいたのは、わずか12人。

ジャワは、いかに戦い、いかに勝利したのか。

13世紀終盤のジャワに、フビライ・ハーンが君臨するタタールが送り出した遠征軍が来襲するという「元寇」があった。敵への偽りの帰順と寝返りという策を二重に駆使してタタール軍をジャワから追い出し、マジャパヒト王国草創の王となったウィジャヤを中心とする物語だ。

●ラデン・ウィジャヤ来歴

ジャワのマジャパヒト王国初代王は、インドネシアでは一般にラデン・ウィジャヤ(ラデンはジャワなどで貴族の男子の名の前につける称号)として知られている。マジャパヒト王として即位後の称号はクルタラジャサ・ジャヤワルダナ。

ラデン・ウィジャヤ(https://id.wikipedia.org/wiki/Raden_Wijayaより)

ラデン・ウィジャヤは、1222年にシンゴサリ国の初代王となったとされるケン・アロック(アンロックとも)とその妻デデスの直系の孫で同国4代目王のマヒサ・チャンパカの息子とも、マヒサ・チャンパカの娘とスンダ・ガルー国の26代目王との間に生まれた息子とも言われている。

シンゴサリ王国とそれに続くマジャパヒト朝の王たちの事績を記した書“Pararaton”(『パララトン』)は、1600年ごろに書かれたと考えられているが、そのインドネシア語版を読んだかぎりでは、ラデン・ウィジャヤがスンダの王の血を引くことには触れられておらず、ラデン・ウィジャヤはマヒサ・チャンパカの息子で、シンゴサリ国5代目王クルタヌガラの従弟に当たることになる。

マジャパヒト朝の最盛期だったハヤム・ウルックの治世の1365年に書かれたと伝えられる貝葉文書 “Kakawin Nagarakrtagama”(『ナーガラクルターガマ』)では、ラデン・ウィジャヤはマヒサ・チャンパカの娘とスンダ・ガルー国王との間に生まれた息子で、シンゴサリ国王クルタヌガラの傍系の甥ということになる。

17世紀に原型が成立したとされる “Babad Tanah Jawi”(『ジャワ年代記』)では、ラデン・ウィジャヤの出自に関しては別の物語を伝えている。少し本筋から離れるが、こちらのバージョンはより神話的で興味深いので、簡単に紹介する。

**********

スンダのパジャジャラン国の山中に名高い行者がいた。パジャジャランの王はその行者を試そうと思いつき、宰相に命じて、金属製の大きな深皿を腹につけて妊婦のように装わせた側室の女を連れて行者のもとへ行かせた。宰相がこの女の腹の子は男か女かと行者に尋ねると、行者は自分が試されていることを見抜いて、「男だ」と答えた。宰相からその話を聞いた王は、行者が嘘をついたと喜んだが、側室の衣服を取ってみると、そこに深皿はなく、女はほんとうに身籠っていた。王は怒って行者を殺した。行者は殺される直前に、罪のない自分を殺す王を呪い、「シユン・ワナラと名乗る者が現れれば、それがわしの復讐となろう」という言葉を残した。

その後パジャジャラン国は大災害に襲われ、多くの民が命を落とした。王が占い師たちを集めて災厄を退ける方法を尋ねると、占い師たちは「大いに騒いで美食を楽しみ、女と寝れば、災厄を退けられるが、王はやがて妾腹から生まれた自らの息子に殺されるだろう」と進言した。王はその通りにして、殺された行者のもとに連れて行かれた側室の女と寝た。やがてその女は男の赤ん坊を産んだが、王は占い師の言葉を思い出して、赤ん坊を殺そうとした。それを憐んだ子守たちが、殺さずとも赤子を箱に入れて川に流してはどうかと言うので王も承知した。

川に流された赤ん坊は、子のない夫婦に拾われて大切に育てられた。少年になったその子は、あるとき山道で猿と鳥を見かけ、養父にその名を尋ねたところ、養父はシユン(クロツグミの仲間)とワナラ(猿)だと教えてやり、その子をシユン・ワナラと呼ぶことにした。

やがてシユン・ワナラはパジャジャランの都で鍛冶屋に弟子入りした。鍛冶の腕前だけでなくさまざまな面で不思議な能力を持つシユン・ワナラのことは王の耳にも入り、廷臣にとりたてられた。それからも王の覚えめでたく、貴族の称号を与えられてアルヤ・バニャック・ウィデと呼ばれるようになった。

あるとき、バニャック・ウィデは都の鍛冶職人たちを集めて扉付きの鉄製の寝台を作らせた。そのころパジャジャラン国は敵の襲撃を受けたが、王はそれを撃退した。それを祝うためにバニャック・ウィデは王を自宅での饗宴に招いた。バニャック・ウィデの屋敷を訪れた王は、鉄の寝台を見て関心を抱いた。バニャック・ウィデは、この寝台で眠れば、疲れは癒え、病気も治ると説明した。王は自分で試してみたくなって、寝台に横になった。王が眠ったことを確かめると、バニャック・ウィデは寝台の扉を閉めて鍵をかけ、仲間たちに命じて寝台ごと王を川に捨てさせた。

父王を殺されたことを知った息子のラデン・ススルー(ウィジャヤ)は、バニャック・ウィデと戦ったが、国を追われ、ある村の未亡人の家に匿われた。パジャジャラン国の王位に就いたバニャック・ウィデが、ラデン・ススルーを匿った者は死罪とするという厳しい触れを出したので、未亡人と三人の息子はラデン・ススルーとともに村を捨て、パジャジャランの地から逃れることにした。村人たち百人ほどがそれにつき従った。

ある山で一行は名高い行者と出会った。深い知恵を持ち、これから起きる出来事を見通すことができ、ジャワ全土の精霊を統べる行者だった。行者はラデン・ススルーに、そのままずっと東へ向かい、ひとつだけ実をつけたマジャの木が一本だけ立っており、その実が苦ければ、その地に住むように言った。いずれその地は大きな国となり、ラデン・ススルーはその王となってジャワの王たちの祖となるだろうと行者は予言し、自分は実は元はパジャジャラン国の王女で、ラデン・ススルーの祖父の妹だと告げた。行者はさらに、自分はいずれ海に移って精霊たちの女王となり、ラデン・ススルーの子孫はその海の北にあるムラピ山のそばに王宮を建ててジャワの地の王となって、自分を妻とすることになると言った。王が助けを必要とすれば、女王は精霊たちの軍勢を率いて助けにくるという。

ラデン・ススルーは行者の言う通り東を目指し、苦い(パヒト:pahit)実をひとつだけつけた一本のマジャ(ベルノキ:maja)の木を見つけて、その地をマジャパヒト(Majapahit)と名づけ、そこを拠点として王国を築いた。

**********

『ジャワ年代記』は後のマタラム国の時代に書かれたもので、マタラム王家がマジャパヒト王家の血筋を引く正統な王家であることを証明するために書かれたという側面がある。王家の正統性と神聖性を証明するために取り込まれたのが、精霊を統べる南海の女王ラトゥ・キドゥルとマタラムの王との結婚という伝説だ。そのラトゥ・キドゥルの前身をマジャパヒト国草創期に登場させ、重要な予言をする役割を与えたのも、やはりマタラム王家の正統性と神聖性を示すための仕掛けのひとつなのだろう。

(以下に続く)

  • 宰相ウィララジャの策略とタタール襲来
  • 『苦い花梨』が描く元軍襲来
  • 外からの視線
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