よりどりインドネシア

2023年04月07日号 vol.139

スラウェシ市民通信(1):アバンダの運命のボール(2007年1月翻訳)(アアン・マンシュール/松井和久訳)

2023年04月07日 21:26 by Matsui-Glocal
2023年04月07日 21:26 by Matsui-Glocal

機内では、スチュワーデスが飴袋を持ってやってきた。一席ずつ訪ね、「飴は無料よ。飛行機に乗ると耳が痛くなるでしょ。そうならないようにたくさんなめるのよ」といいながら乗客へ飴を勧める。窓側に座るアバンダがたくさん飴を取ると、スチュワーデスは大きく微笑んだ。アバンダはあたふたして、礼をするのを忘れてしまった。それまで、通り過ぎる車から洗剤の青いケースに小銭を落としてくれたときには、決して礼を忘れたことはなかったのに。

アバンダは緊張して飛行機の座席に座っていた。マカッサル・サッカー学校(MFS)所属の14人の子供たちは、ジャカルタで開催される2005年国内選抜大会に出場する。出発前の空港待合室では、高級携帯電話を持つ着飾った両親から小遣いをもらう仲間たちをよそに、最も貧しいアバンダは一銭もお金を持っていなかった。

同じその日、暑い陽射しを受けながら、アバンダの母は、息子を空港へ見送ることなく、いつもどおり、祖母や兄弟たちと一緒に大モスク通りの交差点に立って、赤信号で停まった車の窓に手のひらを差し出していた。アバンダら一行を乗せた車がその交差点を通り過ぎるとき、彼は同乗の親友ヘルリに「あれが僕のお母さんだよ」と指差した。ヘルリとは、自分や家族のことを隠し立てする必要がないぐらい親しいのだ。

アバンダは母や祖母に「空港へ見送りに来て欲しい」と言い出せなかった。もちろん見送ろうなどと誰も思わなかった。ハンセン病に冒された手足を見せるのが恥ずかしかったのである。夜明けに家を出るとき、か細い祖母の体は震え、兄弟はアバンダの姿が見えなくなるまで遠くで立ち続けていた。アバンダは胸がいっぱいになった。

その朝はいつもと違っていた。いつもは祖母がアバンダを起こして用意をし、汚れたボロ着を着て、大モスク通りの仕事場へ向かうのだが、この日、祖母はアバンダをMFSへ送る車を待った。おかげで、仕事に出かけるのが遅くなった。アバンダの祖母や母にとって、物乞いは唯一の職業である。他に仕事があれば、物乞いなどやらないのだが、ハンセン病のせいで、選択肢のない厳しい運命に置かれてしまったのだ。

アバンダの母親らが物乞いをしていた大モスク通りの交差点付近(2007年筆者撮影)。当時は水色のペテペテ(マカッサル市内を走る乗合自動車)であふれていた。

●ハンセン病に運命を定められた家族

マカッサル市は1970年代からハンセン病患者を対象とした隔離地区を定めてきたが、アバンダはその家族の一員として1994年4月23日に生まれた。アバンダの母は感情の起伏が激しい女性だった。以前、アバンダが母の左肩の刺青について尋ねると、激しく怒り、答えようとしなかった。母は酒に溺れ、他の家族のように徐々に手足がハンセン病に蝕まれていった。

生後1ヵ月で、アバンダは物乞いになった。満5歳の姉が彼を背負い、ペテペテ(マカッサル市内を走る乗合自動車 ― 訳注)の窓から窓を叩いて、同情を買おうとした。それ以来、雨の日も晴れの日も、物乞いに出るアバンダには同じことになった。そのせいで皮膚は黒光りするほど焼けた。家でアチョと呼ばれ、学校の名簿ではムハッマド・ヌールという名前だが、サッカー選手になる夢を持ったストリート・チルドレンの彼は、地元サッカーチームのPSMに所属する、同じように皮膚の黒い選手の名をとって「アバンダ」と名乗ることにした。

アバンダは5人兄弟の2番目で、幼い頃から祖母と暮らしていた。この祖母は実際には年配の伯母に当たるのだが、三度の結婚でも彼女に子供ができなかったため、年老いてからアバンダを養子に迎えた。

アバンダの両親は喧嘩が絶えなかった。浪費癖の母には貯金がなかった。たった一つの持ち家を売り、住むのに適さない小さい家を借りた。ハンセン病患者が住むこの地区は、都市化が進んだ今では大学生寮のすぐそばに位置する。一般の住民と交流することで、アバンダの家族は少しずつ自信を取り戻している。しかし、彼らの手足を見て唾を吐く人も少なくない。家族の人生について訊かれた彼は、「うちの家族はひどい運命を背負ったゴミ箱だと思う」と涙を浮かべた。

学校へ上がる前、アバンダは毎日朝から夜11時まで大モスクの近くで物乞いをした。この大モスクは近年、ユスフ・カラ副大統領(当時)が寄附した15億ルピアの資金を使ってきれいに改修された。小学校に入ってからは、夕方から夜まで祖母と一緒に物乞いをした。小学校の制服を着たまま仕事に向かい、祖母が持ってきた服に仕事場で着替えて物乞いをするのだ。

アバンダは夕方、サッカーボールを蹴って遊ぶ子供たちをよく眺めていたが、彼らのように自分がボールで遊べるとは思いもしなかった。物乞いの場所では、MFSのメンバーが練習の後に出迎えの父親の車で帰っていくのを見たが、まさか自分がMFSに入るとは夢にも思わなかった。

MFSへ入るには入会金が50万ルピア、月謝が2万5,000ルピアかかる。それはアバンダにとってあまりに高額だった。彼が一日に稼げる額はせいぜい1万ルピアである。その一部は学校の月謝支払のためにとっておき、一部は祖母の借金返済の足しにする。祖母は前に病気になったとき、薬代として75万ルピアを借金したが、病気が治ってからその3倍の額を返済する必要に迫られた。祖母の借金返済を助けるために、アバンダは学校が終わった後も物乞いをしなければならない。「物乞いをするのは恥ずかしいけど、おばあちゃんの借金がたくさんあるし・・・」と彼は言う。

●親友と一緒にMFSへ

2004年12月、アバンダはヘリルと一緒にMFSに入った。しかし、なぜアバンダはMFSには入れたのだろうか。

ヘリルは親友のアバンダが一緒でなければMFSへ入りたくなかった。もちろん、アバンダは50万ルピアの入会金を用意できるはずがない。ヘリルは州議会議員である父親にアバンダの分も負担するように頼んで、支払ってもらったのである。

小学校時代から、二人は親友だった。ヘリルは何不自由なく暮らせる裕福な家庭の子供であり、アバンダは物乞いである。アバンダはヘリルのおかげで、自分よりも境遇のいい子供たちと交われるという自信をつけた。実際、級友の多くは、ストリート・チルドレンだという理由でアバンダを蔑視した。「でも、ヘリルは他の子とは違うんだ。僕が物乞いで家族がハンセン病患者だって分かっても、ヘリルは親友になりたいって言ってくれたんだよ」とアバンダは言う。

初めてMFSに合流したとき、アバンダが大モスク通りで見かける物乞いだとヘリル以外に知る者はいなかった。アバンダとヘリルはジャカルタで開かれる2005年国内選抜大会への参加メンバー選考に臨んだ。物乞いという厳しい生活のおかげで、アバンダの体力は申し分なかった。アバンダもヘリルも合格し、身長が高いアバンダはゴールキーパーに起用された。

参加メンバーの選考が終わり、メンバーの情報確認のとき、MFS幹部はアバンダの情報がないことに気づいた。そして、ヘリルの父親のおかげで、アバンダが入会金を払わずに「裏口で」入ったことを知った。アバンダの練習の様子を見ていたMFSの監督はアバンダに近づいた。アバンダは、正式登録していないことがバレて練習ができなくなると思い、泣いた。

アバンダは監督に対して、自分の境遇をすべて話した。厳しい姿勢で知られる監督はその話に心を打たれ、アバンダにMFSへの入会と2005年国内選抜大会への参加を許可した。

ジャカルタで試合ができると知って、アバンダは喜び、絶対にゴールを守ると約束した。彼はプレー中には激しさを前面に出すが、実は、恥ずかしがり屋なのである。

(以下に続く)

  • 監督の養子に
  • フランスでプレーして
  • 家族を幸せにするために
  • 訳者による解説
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