去る2月11日、滅多に渋滞することのないウォノソボの街はまるでジャカルタのような大渋滞に見舞われました。ピーク時には、待てど暮らせど動かない、10メートル進むのに数十分といった有様で、その日のWhatsApp(LINEのようなメッセージアプリ)のストーリー(写真や動画を投稿して公開できる機能。24時間で自動的に投稿が消去されるので、リアルタイムの出来事だけを知ることができる)には、とにかく渋滞の話題ばかりが溢れていました。
中心部は道のあちこちが封鎖され、遠回りをせざるを得ず、迂回路に皆が流れ込みさらに渋滞が悪化、と、時間が経つごとにひどくなったようです。道の両側には駐車された車がびっちり。道幅もより狭くなり、二進も三進もいかないとはまさにこのこと。
一体何があったのかといえば、街の中心にある公園アルン・アルンにて、こうしたイベントが行われていたのです。
『ナフダトゥル・ウラマー 一世紀記念』。インドネシア最大のイスラム教団体であるナフダトゥル・ウラマー(Nahdlatul Ulama)のウォノソボ支部が、100周年を迎えたとして開かれた記念式典でした。
公園にはステージが設置され、地元の著名な宗教指導者が何人か祈りとスピーチを行いました。食べ物やおもちゃなどを売る屋台や露天商も集まり、独立記念日や県のアニバーサリー以上の賑わいです。
ウォノソボ支部の傘下に各地区や村ごとの支部がありますが、そうしたところの人々も来られるようにと、ナフダトゥル・ウラマーが軽トラを手配もしました。道理で見たことのない量の車両で溢れているはずです。
イベントは、合唱コンテスト、バンスル(Banser: ナフダトゥル・ウラマー傘下の自警団)の行進コンテスト、献血、健康診断、子ども向け塗り絵大会、そしてタトゥー消去サービスなど、多岐にわたる内容でした。また、ウォノソボ支部設立に貢献した先人たちの墓所への巡礼なども行われたと報道されています。
ウォノソボ支部長であるキアイ・ハジ・アブドゥラフマン・エッフェンディ氏(K.H.Abdurrahman Effendi)は、「一世紀を超え次の時代を迎えるにあたり、ナフダトゥル・ウラマーはさらに進化し、教育や保健衛生、経済の各分野でも自立しなければならない。一つの指揮系統のもとで皆が足並み揃えていくことが大切だ」と述べました。
また、県知事であるアフィフ・ヌルヒダヤット氏(Afif Nurhidayat)もイベントに参加し、「我々もナフダトゥル・ウラマーを手本とし、ウラマー(宗教指導者)たちの努力の火を受け継いでいければいいと思う。」とコメントしています。
報道では何万人もの参加者が集ったといわれる一大イベントとなりましたが、このナフダトゥル・ウラマーとはどういう組織なのでしょうか。またウォノソボにおいてどのような歴史を歩んできて、現在どのような活動をしているのでしょうか。インドネシアで生活するうえでは、イスラム教徒でなくとも必ずその名を耳にするナフダトゥル・ウラマー。断食月にあたり、その影響力の一端を覗いてみたいと思います。
●NUの設立
現在、インドネシアにはいくつもの宗教団体がありますが、イスラム教が多数派なこともあり、とくにイスラム教団体は種類も規模も多様なものとなっています。そのなかでも、国内トップ3のメンバー数を誇るのが、ナフダトゥル・ウラマー、ムハマディヤ(Muhammadiyah)、そしてイスラム協会(Persatuan Islam)だといわれています。
調査会社によってデータに多少の差異が見られますが、およそインドネシアのイスラム教徒の49,5%はナフダトゥル・ウラマーの会員だとみられています。現在のインドネシアの人口が2,7億人であり、そのうちイスラム教徒は87%です。そこからナフダトゥル・ウラマーの占める割合が49,5%だとすれば、実に1億人以上の人口を会員として抱えるということになります。もはや日本の人口と同程度の人数が所属する組織だと考えれば、ナフダトゥル・ウラマーがいかに巨大な団体かがおわかりいただけるかと思います。
それほど巨大化したナフダトゥル・ウラマーの始まりとは、一体どんなものだったのでしょうか。ナフダトゥル・ウラマーに至るまでの紆余曲折に深く関わったのが、アブドゥル・ワハブ・ハスブッラー(K.H. Abdul Wahab Hasbullah)という人物でした。
1888年生まれのワハブは、プサントレン(Pesantren)と呼ばれるイスラム寄宿学校の生徒として学問を修めていました。1908年、彼はメッカでさらに勉強を続けるためにサウジアラビアへと渡ります。そこで、他の仲間とともにサレカット・イスラムのメッカ支部を立ち上げました。『サレカット・イスラム』(Syarikat Islam)とは、蘭領東インドで活動するムスリム商人たちが作った団体です。しかし、このサレカット・イスラムのメッカ支部を本格的に運営していく前に、彼らは帰国しなければならなくなりました。第一次世界大戦が始まり、情勢が不安定になってきたからです。
1914年、帰国したワハブはスラバヤのサレカット・イスラムにて熱心に活動を開始しました。そして2年後の1916年、マス・マンスル(K. H. Mas Mansur)など数人の仲間と共に、イスラム学校組織『ナフダトゥル・ワタン』(Nahdlatul Wathan: 祖国の覚醒)を立ち上げます。
イスラム式の学校であれば、マドラサ(Madrasah)という形式のものがすでにありました。しかしナフダトゥル・ワタンがそれらと違うのは、イスラム教の学習に加え、ナショナリズムを根付かせる目的を持っていたことです。名前に祖国と入っていることからもその教育方針が窺えます。植民地時代の真っ只中、民族主義の機運が高まっていた時期でした。
ナフダトゥル・ワタンの活動は資金力のあるムスリム商人たちの援助も得て、順調に進んでいきました。独自のカリキュラムも組み、アラビア文字やコーラン読解のほか、数学や地質学なども教えたのです。
1918年、ワハブは次にディスカッショングループである『ナフダトゥル・フィクリ』(Nahdlatul Fikri: 思考の覚醒)を立ち上げます。生徒たちに社会政治や宗教の教育をする場でありながら、イスラム教徒たちが直面している様々な社会問題について解決の糸口を探すべく話し合う場としました。また同年、ナフダトゥル・ワタンの資金繰りのために、『イナン・ナフダトゥット・トゥジャル』(Inan Nahdlatut Tujjar: 商人覚醒協同組合)を設立しています。これは民衆の経済状況を改善するのに貢献しましたが、次第にオランダ政府により運営に関する条件を次々課されるようになっていきました。
このように様々な形でイスラム教徒たちの居場所を作ってきたワハブですが、メンバーが増えるにつれ、ナフダトゥル・ワタンとナフダトゥル・フィクリを1つにまとめた組織を作りたいと考えるようになりました。しかし、これまで共に活動や運営に携わってきた仲間であるマス・マンスルと意見の違いが生じ、結局マス・マンスルはワハブのもとを去っていくのです。
しかしこの頃、イスラム教徒たちを取り巻く状況は、刻々と変化してきていました。
第1に、オランダ政府によるキリスト教の優遇、布教。第2に、新しい解釈の登場により引き起こされたイスラム教徒間の学派の違いによる対立。そして第3に、アラビア半島の聖地メッカやマディナなどを含むヒジャーズ地域で起こった政変です。
1916年にオスマン帝国から離れ新しく興ったヒジャーズ王国を1926年にナジュド王国のアブドゥル・アジス・ビン・サウード王(Abdul Aziz bin Saud)が侵攻、自らナジュドとヒジャーズ2つの国の王、そしてアラブの王となることを宣言しました。このイブン・サウードがワッハーブ派と呼ばれる宗派を信仰しており、それが蘭領東インドのウラマーたちを動揺させたのです。それというのも、ワッハーブ派は厳格なイスラム法の厳守を掲げており、唯一絶対の神以外にはたとえ預言者などに対しても崇拝してはならないとしているなど、蘭領東インドのムスリムの学派・宗派とは合わなかったためです。
ワッハーブ派が聖地を治めることにより、預言者ムハンマドの墓所を掘り返したり、様々なこれまでの宗教活動が禁止されるようになるのではないか、ワッハーブ派と対立するムスリムたちへの虐殺が行われるのではないかといった噂が聞かれるようになりました。
1926年7月、イブン・サウード王は各国のウラマーらを集め話し合う場を設けることにしました。蘭領東インドもこれに招かれます。蘭領東インドから誰を代表として送るのか、協議に協議が重ねられました。遂にクドゥス出身のラデン・アスナウィ(K. H. Raden Asnawi)が代表として決定しましたが、そこで「一体彼を送り出す母体となるものはなんなのか?」という疑問が生じてきました。そこで、一つの組織を立ち上げようという合意が得られます。西暦1926年1月31日/ヒジュラ暦1344年ラジャブ月16日、ナフダトゥル・ウラマー(ウラマーの覚醒)がムハンマド・ハシム・アシャリ(K. H. Muhammad Hasyim Asyari)をリーダーとして結成されました。すでに長いこと活動していたナフダトゥル・ワタンの実績を受け継ぐものとしてこの名前が付けられたということです。
結局代表となったアスナウィは諸事情ありメッカへ出発できませんでしたが、その後ワハブともう一人のメンバーでイブン・サウード王に直接謁見し、ナフダトゥル・ウラマーからの嘆願(これまでの学派を認めてほしいこと、巡礼の対象となっている聖地を守ってほしいこと、ヒジャーズ王国で行われることになる法を憲法として明文化してほしいこと)を伝えました。ナフダトゥル・ウラマーの訪問はイブン・サウード王に認められたようです。
しかし蘭領東インド内では、ナフダトゥル・ウラマー、略称NUの誕生は全面的に受け入れられたわけではありませんでした。政治結社なのではないか、またはオランダ政府(=キリスト教)の後ろ盾で設立されたのではないかといった疑いをかけられ、ハラム(haram: 教義に反する行い)だとする声もあったのです。
そこで、組織としての目的、運営方針を発表します。NUはスンナ派の教えを広め、地域のムスリム共同体の正義と安全を守るものであるとしています。
●ウォノソボとNU
その後もワハブは各地でのNU支部立ち上げに尽力します。誕生から4ヵ月のうちに、ジャワとマドゥラに35もの支部が出来ていました。支部の条件としては、県単位か、少なくとも12人のメンバーがいれば認可されます。1930年代には会員約67,000人となっていました。
ところで、肝心なウォノソボ支部ですが、実はいつ設立されたのか、明確にわかる資料が残っていないのです。日本軍政期やその後の独立戦争期の混乱で、奪われたか焼かれたかしたのではないかと見られています。
しかし、いくつかその足跡を追うことができるデータがあります。まず、西暦1929年/ヒジュラ暦1348年。スマランのアラビスタン・カンプン・ムラユ・ホテルにて、ムクタマル(Muktamar)と呼ばれる全国集会が開かれました。ムクタマルは定期的に開催されており、この時は第4回目です。そこに、ウォノソボからの使節であるハスブッラー(K. H. Hasbullah)という人物が出席しているのです。NUの歴史上、これが初めてウォノソボの名前が出る記録となっています。
また、1932年以降ではないかとの説もあります。根拠としては、とあるメンバーの記憶ではクドゥ地方(Kedu: 植民地時代の行政区分で元中部ジャワ南部が含まれる)の最古のNU支部はバニュマス支部であり、バニュマス支部の設立が1932年だからというものです。
また、1933年にはウォノソボ支部の各役員たちを正式に任命する任命式が執り行われています。
以上のことから、公式見解としては、おそらく1929年にはウォノソボもなんらかの関係はあったのだろうが、1933年になって正式な支部として認可されたのではないかとしています。
ウォノソボ支部は草の根活動で地道に村々を回り、地区の有力者キアイ(宗教的に尊敬されている男性)に声をかけて、NUへの参加を呼びかけました。これはイスラム教の活動のみに限りませんが、なんらかの団体の支部というのは通常その規模によって呼び分けがされます。地方レベルの支部はチャバン(Cabang 枝分かれ)といい、さらにそれより小さな、村レベルのような支部集団をランティンとかクリン(Ranting, Kring: 小枝)といいます。チャバンはいくつかのランティンをまとめ、本部とのやりとりを担う役割です。ウォノソボでも、村レベルで小規模なランティンを立ち上げないか、とチャバンの人々が熱心に呼びかけていきました。
その成果が実り、1935年に行われた全国集会ムクタマルでは、ウォノソボ支部は1,830人の会員がいると報告されています。
NUは教育機関であるナフダトゥル・ワタンを引き継いだ性質上、子弟への教育にも早くから力を入れていました。ウォノソボ初となるイスラム学校マドラサは、NUによって建てられたものです。そのカリキュラムはスラバヤのナフダトゥル・ワタンに倣いました。地元の人々は、アラブ学校と呼んでいたようです。しかしそれも、1942年に閉校となりました。教員らが日本軍に捕まり、民衆による結社が解散させられたからです。当時のNUウォノソボ支部の正確な会員数データは残っていません。
日本時代はNUにとって試練の時代となりました。民衆に重税が課せられ、生活がままならなくなったうえに、あらゆる集会が禁止されたのです。それでも監視の目を掻い潜りながらキアイたちはこっそりと集まっていました。
独立が宣言された後の1945年9月11日、NUから以下のようなファトワが出されました。
「カーフィル(不信心者)たちとは戦うべし」
ウォノソボにもそれは届き、タンビ茶の工場に潜伏していた憲兵隊たちを武装解除するなど具体的に動き出します。
独立戦争期、ジョグジャカルタが一時的に首都だった時期には、スンビン山は軍事的要衝となりました。ウォノソボ支部のキアイたちは本名を隠し、コードネームで呼び合いながらゲリラ活動をしました。
(以下に続く)
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