よりどりインドネシア

2023年03月23日号 vol.138

ラサ・サヤン(40)~中国名を探せ~(石川礼子)

2023年03月23日 11:02 by Matsui-Glocal
2023年03月23日 11:02 by Matsui-Glocal

●華人系インドネシア人との結婚

1992年2月に、私は華人系インドネシア人の主人と結婚するためにジャカルタにやって来ました。それ以前にも「下見」に来たことはありましたが、実際に現地に「住む」ための渡航は、今思うとかなり覚悟がいったことのように思います。しかし、当時は若さゆえか、はたまた主人への愛情か、あまり深く考えて行動していなかったように記憶しています。

しかし、住み始めたら予期せぬことの連発で、「この国に住むのは無理!」と思ったことが何度もありました。その一つが、華人系インドネシア人に対する偏見と差別です。主人はおそらく第8世代の華僑で、結婚当時まだ中国へは行ったこともありませんでした。言葉もインドネシア語と英語は話せますが、中国語は数字と挨拶くらいしか分からず、結婚後、台湾に旅行した時でさえ、値段交渉すらできないほど、中国本土とはほど遠い生い立ちです。

それにもかかわらず、主人は幼少時に、住んでいたパレンバンで近所の子供たちから石を投げられ、「中国に帰れ」などと頻繁に虐められたそうです。これは、主人だけでなく、おそらく40歳以上の、とくに地方で生まれ育った華人系インドネシア人であれば、少なからず経験していることのように思います。

中国からの移民・移住は、鉱山や農園での労働者の需要が大きくなった19世紀半ばから20世紀初めにかけて急増した。(出所)上:https://nationalgeographic.grid.id/read/132517834/migrasi-dan-perdagangan-riwayat-orang-tionghoa-di-bumi-nusantara?page=all、下:https://voi.id/memori/10641/menelusuri-gelombang-awal-imigran-china-di-indonesia

ジャカルタでも、私が住み始めた1990年代後半には、華人系インドネシア人に対する偏見や差別が少なからずありました。夜間、主人が運転して走っていると、長い棒を持った人がガラス越しに主人の顔を確認するなり、フロントガラスを叩いてきたり、警察官にいちゃもんを付けられてお金をせびられたり、入国管理局の役人が二人、夜に突然、我が家を訪れ、主人に怒鳴りながら、しかも土足で家に上がり込み、私の滞在許可に問題がないのに、あらぬことで脅しを受け、結果的にはお金で解決しなければならなかったり、私の滞在許可の延長手続にもかかわらず、同行した主人が呼ばれて袖の下をせびられたり、娘たちの出生届がなかなか受理されなかったりと、あらゆる場面で明らかに主人が華人系であるがゆえの差別があり、華人系であるがゆえに反論できない出来事が多々ありました。

24年前、私が日系企業に入社して直ぐ、オフィスのトイレの個室で用を足していた際、後から入ってきた3人の現地社員が、中に私がいることも知らず、手洗い場で私の噂話を始め、「礼子の旦那、チナ(華人の差別的呼称)だよ」と憎々しげに話しているのを聞き、ショックで個室から出られなくなったのを覚えています。また、仕事やプライベートで会った(あまり使いたくない言葉ですが、原住民を指す)プリブミのインドネシア人の方に主人のことを聞かれ、「主人はチャイニーズだ」と言った途端、態度が素っ気なくなったことも何度かあります。日本人女性の先輩だった人も、社内の華人系スタッフが生意気なことを言ったりすると、“Dasar Cina”(だから中国人は嫌、という意)と舌打ちしていたのを理不尽な思いで聞いていました。同じ日本人女性でありながら、伴侶によってこうも思想や考え方が変わるものかと複雑な気持ちでした。

●華人排斥暴動

それら差別が大きく表面化した事件が、1998年5月にインドネシア各地で起こった暴動です。これは「華人排斥暴動」とも呼ばれ、女性・子どもを含めた1,200人以上の華人系インドネシア人が暴行・虐殺されました。一部の報道では80人以上の華人系女性がレイプされたと報じられています。

私の家族も例外ではなく、義姉が経営する商店は略奪されたうえに火を点けられ、義姉家族は命からがら逃げ出し、義弟が経営する商店にも暴徒が押し寄せ、商店を手伝っていた弟嫁の従兄が恐怖のあまり二階から飛び降り、障害者になってしまいました。家族に死者が出なかったことだけが不幸中の幸いでした。

当時35歳の私は、次女を1998年2月に出産し、その3ヵ月後に起きた暴動に事態が把握できず、頼みの主人は帰宅途中で危険を感じたため、知り合いの家に泊めてもらいました。近所の人に「暴徒が隣のコンプレックスのスーパーマーケットに火を点けた。私たちの住むコンプレックスにも入ってくる危険があるので、ドアやカーテンを閉めて、中でじっとしているように」と言われ、小さな娘二人とメイドと恐怖で震える夜を過ごしました。翌朝、近くに住む義兄夫婦が心配して訪ねてきてくれ、その後、主人もなんとか家に戻ってきました。この状況を鑑みた義母は、私に帰国するよう勧め、日本大使館に連絡し、生まれたばかりの次女の一時旅券を発行してもらいました。そして、知り合いの旅行会社に借金をして航空券を発行してもらい(当時はTokenもE-チケットもなく)、それらをオジェック(ゴジェックはまだない)の運転手に取りに行ってもらいました。空港までの高速道路にも暴徒が待ち構えていると聞いたので、護衛にオジェックのドライバー3人に同乗してもらい、出国する人でごった返す空港に着きました。当時、出国税が一人につき100万か150万ルピアだったと思いますが、銀行の支払い窓口も長蛇の列で、1時間ほど並んで3人分(赤ちゃんも一人と看做された)の出国税を支払い、3歳の長女と乳飲み子の次女を抱え、疲れ切って帰国の途に着きました。

親や兄弟の面倒を見なければならない主人は現地に残り、これでもう主人とも会えないかも知れない、という断腸の思いで空港を後にしました。

暴動時の略奪の様子(上)、全焼した建物の間を歩く華人系インドネシア人の子ども(下)。もっと惨い写真が沢山ありましたが、掲載が憚られました。(出所)上:https://www.bbc.com/news/world-asia-27991754、下:https://www.wowshack.com/18-images-to-remember-the-may-1998-riots-some-nsfw/

インドネシアに来てからずっと主人は、私が大胆な言動をとったり、インドネシアの政治や社会を批判したり、プリブミであるメイドやドライバーと問題を起こしたり、高級ホテルやレストランを利用したりすることを好まず、ひたすら目立たないようにすることを望みました。前述の日系企業で、現地社員のお局のような存在の女性からひどい嫌がらせを受けた時も、ひたすら我慢するように言われました。その結果、私も主人が華人系であることを他人になるべく話さないように心掛けるようになりました。

中国正月の春節前は、今でこそ、どこのショッピングモールでもレバランやクリスマスと同じくらい賑やかな飾り付けや大セールが行われますが、当時はまだ祝日にもなっていませんでしたので、有休を消費して家族や親戚だけでひっそりと祝っていた記憶があります。また、豚肉料理を提供するレストランはバリ島以外ではタブーでしたし(特定の地域では営業していましたが)、アルコールも入手が困難なうえに、おおっぴらに飲むことが憚れた時代でした。

30年たった今、ジャカルタでは “Pig Hunter”、“The Fat Pig” などのネーミングを付けた豚肉料理専門店が堂々と豚の顔の看板を出していますし、アルコールに関しても、インドネシア人の富裕層の間では日本のウィスキーが流行しています。それまで、ホテル内にしかなかった洒落たバーやクラブは至るところにあり、簡単にお酒を楽しめるようになりました。数年前のある日、会社でヒジャブを被ったイスラム教徒の女性社員が、以前は姿形さえも忌み嫌われていた「豚」のぬいぐるみを抱えているのを見て、「時代は変わったなぁ~」と感慨深く思い、暫し自分のインドネシアでの年月を振り返る瞬間でした。

●華人文化禁止令の撤廃

2014年3月に、当時のユドヨノ大統領は華人の呼称 “Cina”(チナ)を“Tionghoa”(ティオンホア)に変える大統領決定に署名しました。もともと、故スハルト大統領が1967年の大統領令で、中国の文化、思想、宗教、儀礼を禁止する「華人文化禁止令」を発令し、中国人や中国系の国民の呼称を“Cina”と規定したのでした。“Cina”(チナ)は、その響きからも差別的な意味合いが強い呼称でした。

1967年の「華人文化禁止令」以降、中国語を国語として教える学校も禁止されたために、主人のように1970年代以降に就学した華人系インドネシア人の多くは中国語を話せず、インドネシア語あるいは生まれ育った地域のインドネシアの地方語(ジャワ語やマカッサル語など)を母国語として育っています。同時にそれまで使っていた中国名をインドネシア名に変えることを余儀なくされました。主人の名前も彼の中国名から「富(中国語でfuと発音)」の一文字を取り、イラク大統領だったサダム・フセインのフセインに響きが似た「フーシン」として登録されました。

スハルト体制が崩壊した1998年には、第3代大統領のハビビが中国語使用を解禁するなど差別撤廃を宣言しました。2000年に第4代大統領のアブドゥルラフマン・ワヒドは華人文化禁止令を撤廃し、マイノリティ民族や宗教に対する人権擁護を実践しました。また、2001年に第5代大統領のメガワティは春節を「国民の祝日」に定め、華人系インドネシア人への差別は、公式上はなくなりました。

しかしながら、現代でも華人系インドネシア人に対する偏見や差別には根深いものがあります。そんな華人系インドネシア人の背景を知ったうえで、以下の “The Jakarta Post” 紙の記事を読んでいただきたいと思います(一部意訳、削除また追記あり)。

●中国名を探す華人系インドネシア人

オンライン・サービスで中国名を探す華人系インドネシア人たち(2023年1月19日付のThe Jakarta PostのCulture欄より抜粋)

華人系インドネシア人は、自身の名前に関する複雑な経緯を持っている。スハルト政権初期の1966 年に大統領令第 127 号が発令され、華人系インドネシア人は名前をインドネシアの名前に変更するよう強制された。新秩序体制化の前にも、華人系インドネシア人の一部は名前を変えていたが、これは個人の選択によるものだった。多くの華人系の人たちが、本名の中国語の要素をインドネシア名に取り入れようとした。標準中国語で「黄色」を意味する“Huang”に相当する福建語の”Oey”(オイ)という姓を持つ人たちは、インドネシアの名前 “Wijaya”(ウィジャヤ)を選択した。

華人系インドネシア人の高齢者は、子孫の名前を付けるのに一役買うのが一般的だったが、今日ではオンライン・サービスを含む多くのサービスが、華人系インドネシア人の中国名を決めるのに役立っている。60歳のチン・テクセン(以下、テクセン)さんはスラバヤ出身で、このサービスを利用して孫の中国名を選んだ一人だ。テクセンさんは標準中国語を話すことができるが、オンライン・サービスのお陰で5番目の孫娘の名前を探す際に、オンライン・サービスを活用することで、より多くの選択肢を持つことができたと言う。「この孫は『水』の要素を多く持っているので、この子がバランスの取れた生活を送れるように『木』や『金』の要素を持つ名前を探すことができました。子供にぴったりの名前を見つけられ、本当に良かったです」と、テクセンさんは話す。テクセンさんは、中国の五行思想の元素である『火、水、木、金、土』について言及した。五行思想は、宇宙万物の基本的な側面であると信じられており、5つの元素はお互いに作用関係を持つことから、バランスの取れた名前が適切とされる。

(⇒華人系インドネシア人に焦点を当てる人類学者で・・・)

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