よりどりインドネシア

2023年03月23日号 vol.138

いんどねしあ風土記(44):ボロブドゥール遺跡発見物語 ~中ジャワ州、ジョグジャカルタ特別州~(横山裕一)

2023年03月23日 11:02 by Matsui-Glocal
2023年03月23日 11:02 by Matsui-Glocal

世界最大級の仏教寺院遺跡とされるボロブドゥール遺跡。西暦800年前後に建築されたものの、その後まもなく歴史の舞台から姿を消し、密林と土砂に埋もれ人々に忘れ去られてきた謎の多い遺跡でもある。ボロブドゥール遺跡が発見されたのが19世紀初め、一般的には英国人のラッフルズが発見したとされているが、実は彼本人が現地を訪れた記録は残されていない。そこにはあるジャワ人が大きな貢献を果たしていた。ユネスコの世界遺産にも登録された巨大遺跡にまつわる発見物語。

●ボロブドゥール寺院

ボロブドゥール遺跡(中ジャワ州マグラン)

2023年3月上旬、ボロブドゥール遺跡は1年前からの上層部立ち入り禁止を解除するため、試験的に2週間限定で観光客に公開を始めていた。立ち入り禁止措置は観光客による落書きや破損などマナー違反が原因だった。正面の通路からボロブドゥール遺跡に対峙すると丘の上に立つ要塞のようにも見え、その威容を改めて実感する。

ボロブドゥール寺院遺跡は中ジャワ州マグランに広がる盆地の南部、丘陵地に差し掛かる地域に位置する。同州などで発見された複数の石碑文をもとにした研究によると、古マタラム時代、シャイレンドラ朝サマラトゥンガ王の命令で西暦780年頃から830年頃にかけての建設とされている。建設期間は実に約半世紀もの歳月がかけられたとみられている。

ボロブドゥール遺跡全景

最上部のストゥーパ

寺院は一辺約120メートルの正方形の基盤に10層の階層が積み上げられた巨大な石造建築物で、最上層には中央の大ストゥーパを巡るように72基のストゥーパが配置されている。また各所に安置された石仏像は合計504体を数え、壁面に施された釈迦の生涯や生前の行いなどを描いた石彫刻のレリーフは合計2672枚に及ぶ。

遺跡各所に安置された石仏

精緻な彫刻が施された壁面レリーフ

ボロブドゥールは大乗仏教の寺院で、それとともに王族の遺灰を祀った祖先崇拝の場であったともいわれている。当時の王家の権勢を誇る巨大仏教寺院だったが、完成してほどなく権力はヒンドゥー教勢力に支配され、仏教は衰退していく。850年頃には巨大なヒンドゥー教寺院であるプランバナン寺院も建設されている。さらに10世紀に入ると、王朝は所在地だったとされる現在のジョグジャカルタ特別州や中ジャワ州南部地域周辺から東ジャワ州へと移転した。

仏教の衰退、王朝の遠隔地への移転によってボロブドゥール寺院は取り残され、不運にもわずか数十年で役割を終えてしまう。その後、密林に覆われ、土砂に埋もれていく。土砂に埋もれた理由としては火山噴火に伴う降灰によるものや、他宗教者からの破壊を恐れた地域住民が埋めたものなど諸説あるが、未だ不明のままである。そしてイスラム教の大規模な伝播に伴い、ボロブドゥール寺院は人々から完全に忘れられた存在になってしまう。その後、再び日の目を浴びるまでには実に千年もの歳月を要した。

●ラッフルズとタン・ジンシン

千年後のジャワは植民地だった。17世紀以降、ジャワ島を中心にオランダによる植民地化が進められたが、19世紀に入るとフランス革命に端を発したヨーロッパの混乱でオランダ本国はフランスに統治される。これに伴い海外の植民地は英国に引き継がれ、1811年からジャワ島を含めた東インドも英国の統治下となった。

この変動期に奇しくもボロブドゥール遺跡が発見されるに至る。発見に重要な役割を果たしたのが、英国から東インドに派遣された総督代理のトーマス・スタンフォード・ラッフルズとジャワ人のタン・ジンシンの二人の運命的な出会いである。

タン・ジンシンは1760年、現在の中ジャワ州ウォノソボで下級貴族の家に生まれたジャワ人だが、生後すぐに華人の養子となり華人名を与えられる。ジャワ語、中国語に加え英語とオランダ語を身につけたタン・ジンシンは英国統治時代、ジョグジャカルタで徴税など華人社会の取りまとめを担うカピテン(カピタンとも呼ばれる)の職にあった(タン・ジンシンの伝記詳細は『よりどりインドネシア』第132号、神道有子さん著「ウォノソボライフ (58)」をご参照)。

ハメンクブウォノ2世。(出所)Ndalem Ageng, Komplek Kedhaton Ambarrukmo所蔵。

ハメンクブウォノ3世。(出所)Ndalem Ageng, Komplek Kedhaton Ambarrukmo所蔵

当時、ジョグジャカルタ王家ではハメンクブウォノ3世の時代だったが、英国統治以前、オランダによって退位を強いられた2世が復権を画策し、実質的に王位を奪還していた。この時期、3世の有力な協力者であり、役職がら交流のあったジョグジャカルタの英国地方長官との橋渡し役を果たしたのがタン・ジンシンだった。さらに総督代理であるラッフルズがジョグジャカルタを訪れるたびにタン・ジンシンも面会し、王家問題の対応を検討していた。そして1812年6月、ラッフルズ率いる英国軍が王宮に砲弾を打ち込むなど襲撃して2世を捕捉(セポイ騒動)、3世が正式に王位に就いて事態は収拾する。

これらを通してタン・ジンシンはハメンクブウォノ3世から爵位に加え、当時大臣職にも並ぶとされるジョグジャカルタ県知事の職を与えられただけでなく、ラッフルズからも多大な信頼を獲得した。タン・ジンシンは爵位を受けて以降、カンジェン・ラデン・トゥムングン・スチョディニングラット(K.R.T.スチョディニングラット)と改名している。

タン・ジンシンとラッフルズの交流、またボロブドゥール遺跡発見に至る経緯は、タン・ジンシンの子孫、T.S.ウェルドヨ氏が代々家族に伝承されてきた逸話をもとにまとめた著書『タン・ジンシン 華人カピテンからジョグジャカルタ県知事まで』(原題は本稿末)に詳細に記されている。

そのなかで、タン・ジンシンはラッフルズと初対面の際、ラッフルズが英語混じりのムラユ語で「ジャワの文化や歴史に興味を持ち、書物を読み漁っている」と話すのを聞き、魅力を感じたと記されている。当時、オランダ人は搾取だけで、ジャワ自体に興味を持つ西洋人に会ったことがなかったためだという。

二人の交流が進むなか、ボロブドゥール遺跡に初めて話が及んだのが1812年8月、ラッフルズによるジョグジャカルタ訪問の際のタン・ジンシンとの対面の場だった。ラッフルズはジャワ人の祖先が残した寺院遺跡に非常に興味を持ち、プランバナン遺跡に対しても調査保全を研究者に指示したことを話した。これを受けてタン・ジンシンが人夫頭の一人から聞いた話として、ムンティラン(現在の中ジャワ州マグランにある地名)近くのブミスゴロ村で大きな寺院(の遺跡)を見たことを伝えた。人夫頭が見たのは子供の頃で数十年前の話だったという。タン・ジンシンがタイミング良くこの話ができたのも、長く現地(マグラン)一帯のカピテン(税収など華人社会の取りまとめ役)を務め、住民との交流など現地に精通していたことが幸いしたものとみられる。

ラッフルズはすぐに興味を示し、タン・ジンシンに現地へ赴き寺院遺跡を確認するよう依頼する。タン・ジンシンは数日後にはアシスタントとともに馬車でブミスゴロ村へ行き、パイミンという村人の案内で寺院遺跡を探した。道中は深い藪に覆われていたため、パイミンが山刀で道を切り拓きながら丘を登り進んでいった。そして遂に目的地に辿り着くと、パイミンは遺跡を指してボロブドゥール寺院という名前だという。丘の上に立つ寺院遺跡は酷い状況だった。寺院全体に草木が覆い茂り、建物の下部は土砂で埋まっていた。寺院の周囲も草木が生い茂る密林だった。これこそが地元住民の一部を除いてのボロブドゥール遺跡の実質的な発見の瞬間だった。時に1812年8月上旬、英国軍によるジョグジャカルタ王宮襲撃から2ヵ月も経っていない時だった。

タン・ジンシンはジョグジャカルタの自宅に戻ると、寺院遺跡への地図と状況を詳しく手紙にまとめ、バタヴィア(現在のジャカルタ)にいるラッフルズに送った。この中でタン・ジンシンは後の調査のため、周囲の木々を切り倒し、藪を焼き払うこと、さらにはブミスゴロ村から遺跡までの道路を切り拓く提案も付け加えた。

前述のウェルドヨの著書『タン・ジンシン』には、寺院遺跡の確認後、ジョグジャカルタへ戻る道中で、タン・ジンシンが次のように考えたと記されている。

「オランダ人は百年もジャワ島を支配してきたのに寺院遺跡に見向きもしなかった。しかし、驚きであり感心すべきことに、英国人はまさにこうした古代遺跡に興味を示したのである」

彼が事実このように考えたとすればまさに言い得て妙で、英国に支配権が移り、総督代理という権力を持った立場で偶然にもジャワの歴史に興味を持っていたラッフルズの存在は大きい。そして、そのラッフルズと現地に精通したタン・ジンシンの運命的な出会いこそがボロブドゥール遺跡を千年の眠りから目覚めさせたといえそうだ。

さらに言えば、タン・ジンシンがここまで感慨を受けた背景には、ボロブドゥール遺跡を目の当たりにして、巨大な規模や造りからただならぬ古代遺跡だと実感したためだとも推察できる。

●ボロブドゥール発見前後

これまで「ボロブドゥール遺跡は千年間忘れ去られてきた」としてきたが、実は度々その存在が歴史上に痕跡を残してもいる。

インドネシアの考古学界の先駆者であり、1973年からユネスコ主導で行われたボロブドゥール遺跡大改修でのインドネシア側の専門家代表でもあった考古学者、スクモノ氏の著書『1世紀にわたるボロブドゥール遺跡保護活動』(原題は本稿末)によると、14世紀のマジャパヒット王国時代、ウンプ・プラパンチャが記した歴史叙事詩『ナガラクルタガマ』(Nagarakertagama)の中に「ブドゥール」という名前の仏教聖地としての建物が登場しているという。「ブドゥール」という名前は他には見受けられないため、ボロブドゥール寺院を指すのが定説であるという。

また、18世紀にはボロブドゥール遺跡が「災厄の場所」として見做されてきた記述も残されている。『ジャワ年代記』(Babad Tanah Jawa)によると、1709年、当時の王に反乱を起こした人物がボロブドゥール丘まで敗走し、追手の部隊に包囲された挙句逮捕され、後に死刑を受けたとされている。さらに『マタラム年代記』(Babad Mataram)では、1757年、ジョグジャカルタ王家の皇太子がボロブドゥール遺跡で当時の禁を破って仏像を見たために、王宮に戻ってから血を吐いて最期を遂げたとの記述もある。

このように、実際にはその巨大さから周囲の一部には既に存在が知られていて、鬱蒼とした木々の合間に仏像が垣間見えたことなどから恐ろしい「災厄の場所」としてのイメージが植え付けられていた可能性もある。このように人々が避けてきたものの「何かある」という認識が、後の「発見」の糸口となるタン・ジンシンが得た地元村人の目撃情報に繋がったものとも推測される。

タン・ジンシンがボロブドゥール遺跡の存在を確認し、ラッフルズに報告した後、返事が来たのは一年余りもたった1813年の11月だった。それによるとラッフルズは多忙のためボロブドゥール遺跡へ訪れる機会を得られなかったが、ようやく1814年1月上旬に古代専門家を同行させてスマランへ行けるので、ここで合流して現地に入りたいとのことだった。また、タン・ジンシンの提案通り、事前に遺跡周辺の整備も行っておくよう依頼されていた。

早速、タン・ジンシンは前回同行させたアシスタントとともにブミスゴロ村へ赴き、村民とともにボロブドゥールへ向かった。タン・ジンシンは村から遺跡まで5メートル幅の道路を切り拓くとともに、遺跡周辺20メートル四方の木を切り倒し、藪を焼いて整備するよう指示した。また石組の倒壊防止のため、遺跡の上の木や藪には手をつけないよう注意したという。専門家の手に委ねるまで遺跡の状態を維持させようという、慎重で見識深い性格が伺える。

アシスタントを監督者として現場に残してジョグジャカルタへ戻ったタン・ジンシンは、年明けの1814年1月上旬、スマランへと向かった。スマランでタン・ジンシンはラッフルズと再会し、オランダ人古代専門家のコルネリウスと3人のスタッフを紹介された。しかし、ラッフルズは残念そうに、自身は現地へ行けなくなったことを告げた。重要な問題を解決するためスラバヤへ行く必要ができたためだった。ラッフルズは年内にはボロブドゥールへ行く機会を作りたいと話したという。

翌日、タン・ジンシンはコルネリウスとスタッフを連れてボロブドゥール遺跡へと出発した。道中、調査メンバーにマグランの有力者を紹介し、諸々協力を要請するなど万全の対応だったという。ブミスゴロ村の住民とともにボロブドゥール遺跡に到着すると、コルネリウスは事前の整備に感謝するとともに、現在の遺跡周辺20メートル四方をさらに50メートル四方にまで拡げて更地にするよう依頼した。遺跡の測量やスケッチをより容易に進めるためだった。タン・ジンシンはそれらを指示した後、ジョグジャカルタへ戻った。

この1814年1月のラッフルズが送り込んだ古代専門家による2ヵ月の調査(実質的には周辺整備)が歴史上、ラッフルズによるボロブドゥール遺跡発見として一般に記録されている。ラッフルズ自身は希望したものの、結果的にその後もボロブドゥール遺跡を訪れることは叶わなかった。しかし、ボロブドゥール遺跡への強い関心と行きたいという意志がなければ、タン・ジンシンによる遺跡存在の確認を含めた発見には至らなかったこと、さらには後にラッフルズの著書『ジャワ誌』(The History of Java /1817年)でボロブドゥール遺跡を初めて世界に紹介したことなどから、彼が発見者とみなされるのも妥当といえるかもしれない。一方で、実質的な発見者であるタン・ジンシンの功績がインドネシアでさえほとんど知られていないのは気の毒であり、残念でもある。

前述のインドネシアの考古学者、スクモノ氏の著書を含め、発見に関するほとんどの記述は、「1814年、ラッフルズがスマラン訪問時に、ボロブドゥールと呼ばれる寺院遺跡の存在を知り、自身は所用で行けなかったため、古代専門家のコルネリウスを調査のため派遣し、発見した」という内容である。タン・ジンシンは一切登場せず、彼の伝記とも内容が一部異なる。

スクモノ氏の著書によると、ラッフルズの命を受けたコルネリウスは鬱蒼とした木々と藪に覆われた中にあるボロブドゥール遺跡を発見し、地元村民約200人に遺跡周辺を切り拓くよう指示した。しかし、2ヵ月間の作業でも遺跡全容を窺うには至らなかった、としている。

しかし一方で、誰がラッフルズにボロブドゥール遺跡の存在を伝えたか、またコルネリウスが200人もの地元村民をどのように集めたかなど発見時に関する詳細な記録は一切なく、行間からは、たとえタン・ジンシンの名前が登場しなくとも、有力な地元協力者が存在していたことが窺われる。

(以下に続く)

  • 「ボロブドゥール」の謎
  • ボロブドゥール改修、復元史
  • ラッフルズとタン・ジンシンその後
  • 2023年3月、ボロブドゥール遺跡にて
この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

いんどねしあ風土記(53):世界遺産「ジョグジャカルタ哲学軸」が示すもの ~ジョグジャカルタ特別州~(横山裕一)

2024年04月23日号 vol.164

ウォノソボライフ(73):ウォノソボ出身の著名人たち(2) ~女優シンタ・バヒル~(神道有子)

2024年04月23日号 vol.164

ロンボクだより(110):晴れ着を新調したけれど(岡本みどり)

2024年04月08日号 vol.163

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)