よりどりインドネシア

2023年03月09日号 vol.137

日本の近代文学を訳す(その1)(太田りべか)

2023年03月09日 03:23 by Matsui-Glocal
2023年03月09日 03:23 by Matsui-Glocal

今回はちょっと翻訳の話を。以前、『よりどりインドネシア』第78号(2020年9月22日発行)で、出版社Penerbit Maiが実施している若手翻訳者プロジェクトについて触れた。当時始動して間もなかった同プロジェクトも、約3年が経って出版点数も増えた。このプロジェクトから生まれた翻訳書を通して、プロジェクトが取り組む日本の近代文学翻訳の試みを紹介したい。

Mai出版と若手翻訳者プロジェクト

Mai出版(Penerbit Mai)の創立者であるアンドリー・スティアワン氏(Andry Setiawan)は、日本と韓国の文芸作品の翻訳書を中心に出版するHaru出版(Penerbit Haru)も主宰している。このHaru出版のJ-Litシリーズは、湊かなえや秋吉理香子のミステリー小説やアニメ映画が評判となった新海誠の『天気の子』など、特に若い読者層を対象として多くの日本の文芸作品を翻訳出版し、インドネシアの日本文芸愛好家たちの間での注目度も高い。韓国の作品では、2022年にブッカー国際賞の最終候補に残ったチョン・ボラの『呪いのウサギ』のインドネシア語訳をいち早く出版するなど、近作に対する目配りとフットワークの軽さが魅力的な出版社である。アンドリー氏自身も作家、翻訳家、編集者としてだけでなく、さまざまな文芸イベントの司会やコーディネイターを務め、幅広く活躍している。

Mai出版は、現在のところまだ小規模の出版社だが、2022年に出版された太宰治『人間失格』のインドネシア語訳 Gagal Menjadi Manusia(Asri Pratiwi Wulandari訳)を皮切りに、2023年2月までに7冊の翻訳書を刊行している。この7冊はいずれも若手翻訳者プロジェクトから生まれたものだ。

Mai出版の若手翻訳者プロジェクトは、日本文学をインドネシア語に翻訳したいという意欲を持つ人なら、基本的にだれでも挑戦できる。すでに著作権が切れた日本の作家たちの作品の多くを「青空文庫」のサイトから無料でダウンロードできるので、そのなかから翻訳者が翻訳したいと思うテクストを選ぶ。編集者からの推薦やアドバイスはもちろんあるだろうが、基本的に翻訳者の意向を尊重して作品を選定するとのことだ。

翻訳する作品が決まると、翻訳者は早速翻訳に取りかかり、できあがった訳稿は複数の編集者が翻訳者と意見を交わしつつ手を入れて、数回の編集を経て完成稿に仕上げ、表紙イラストおよび場合によっては挿画を作成して、書籍として出版する。自費出版やいわゆる共同出版ではなく、オンライン書店などを通して普通に販売される歴とした商業出版である。翻訳者には、もちろん翻訳料が支払われる。

たとえば、インドネシアの人が大学の日本語関係の学科での学習や日本留学などで身につけた日本語能力を活かして翻訳をしてみたいと思った場合、実務翻訳なら、インターネットサイトやSNSなどで翻訳エージェントを探して翻訳者として登録したり、翻訳関係の会社に就職したりといった道がある。一方、文芸翻訳をしてみたいと思っても、まずどこから始めればいいのか、取っ掛かりを見つけにくいというのが現状だろう。そういう文芸翻訳希望者にとって、Mai出版の若手翻訳者プロジェクトは、実に夢のような絶好の機会を提供してくれる。翻訳者としての経歴がなくても、大学の教員や研究者という肩書がなくても、日本語で書かれた文芸作品を読み解き、インドネシア語に訳し、地道に推敲を重ねるためのしつこさを持ち合わせている人なら、だれでも翻訳家としてデビューできるのである。

もちろん、一冊翻訳書を出しておしまいというのではない。他にも訳してみたい作品があれば、編集者と相談の上で何度でも挑戦できる。出版された書籍は、ごく一般の販売ルートで販売されるし、SNSやオンラインイベントを通じてのプロモーションも怠りなく行われるので、多くの読書愛好家や他の出版関係者の目に触れる機会も増え、翻訳者は他の出版社から翻訳依頼を受けるチャンスを手に入れられるかもしれない。また、出版された翻訳書を名刺代わりに、翻訳者のほうから他の出版社に企画の売り込みをすることだってできるだろう。

出版社にすれば、さほど大きな利益を見込める事業ではないだろうと想像できるけれど、著作権切れの作品を使用することによって、翻訳権取得の手間と出費を抑え、比較的ページ数の少ない本を手の届きやすい価格で売り出して、周到に販売促進活動をするという一般の商業出版に徹した進め方は、注目に値する。

著作権切れの作品というと、当然かなり前に書かれたものだし、「文豪」と称される作家たちの作品も含まれるので、日本の人々はひょっとすると、そういうものは大学の研究者が専門的に研究を重ねて翻訳するものなのではないかというイメージを持っているかもしれない。だが、大学教員や研究者が研究の副産物のようにして翻訳したものを大学出版局から刊行するという形では、発行部数が少なく値段は高く、なによりも限定されたある意味特殊な世界での内輪の出来事のようになりがちで、一般の読者の目に触れる機会はあまり得られないだろう。文芸作品は、たとえ昔の作品でも、シリアスな内容のものであっても娯楽のひとつと捉えて差し支えないと思うので、そのような一般に普及しにくい限定された形での出版は、望ましい形態とはいいがたい。とりわけ、それまで日本や日本文学に特に関心のなかった読者たちを新たに日本文芸の世界に取り込むという点においては、ほとんど無力といっていいだろう。

その点、Mai出版の若手翻訳者プロジェクトは、翻訳する側にとっても読む側にとっても敷居を低くした(でも、もちろん翻訳のクオリティはゆるがせにしない)、風通しのよい活気あふれる試みなのだ。そのうち、日本ではほぼ忘れ去られてしまった作品や、“聞いたことはあるけれど読んだことはない名作”について、日本の若者が「知らない」「読んだことがない」と言うところを、インドネシアの若者が「あ、それ、インドネシア語で読んだよ!」と言う場面が増えてくるかもしれないではないか。

また、翻訳する側から見た場合、Mai出版に限らず、インドネシアの出版社一般が支払ってくれる翻訳料は、正直なところさほど多くはない。それでも、漢字が多く、聞き慣れない古めかしい言葉も頻出するテクストに執拗に向き合い、翻訳しようと志す若い人たちが少なからずいることを、私は個人的に非常に嬉しく思っている。

前述のように、著作権切れの作品というと、かなり前に書かれたものなので、馴染みの薄い言葉づかいや表現や文化・習慣が作品の中に書き込まれていることが多い。Mai出版の若手翻訳者プロジェクトには私も編集段階で翻訳チェッカーとして参加し、翻訳者が読み取れていない部分を指摘したり、馴染みのない言葉や文化・習慣などについての翻訳者の疑問に答えたりしている。そうした経験を踏まえて、同プロジェクトから近頃生まれた翻訳書を中心に、Mai出版の既刊書を紹介していきたい。

(以下に続く)

  • 謎と死の影に彩られた幻想次元の旅 ―『銀河鉄道の夜』―
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