よりどりインドネシア

2023年02月23日号 vol.136

陸軍区大幅増設構想の舞台裏~すべての州に陸軍区が必要なのか~(松井和久)

2023年02月23日 22:12 by Matsui-Glocal
2023年02月23日 22:12 by Matsui-Glocal

筆者はこのところ、本誌で国家警察の話を何度か取り上げてきましたが、今回は国軍、とくに陸軍の話です。2月11日、プラボウォ(Prabowo Subianto)国防大臣が「すべての州に陸軍区(Kodam)を設置する」というドゥドゥン(Dudung Abdurahman)陸軍参謀長の構想に賛意を示し、今年中にも実現させたい、という話が出てきました。ドゥドゥン陸軍参謀長によれば、ユド(Yudo Margono)国軍司令官も同意しているとのことです。

現時点での陸軍区の数は15区で、州の数は38ですから、この構想が実現すると、陸軍区の数が一気に倍以上になります。38州には、つい最近、パプア州や西パプア州からの分立が決まった新州も含まれます。なお、パプア州の分立については、『よりどりインドネシア』第116号(2022年4月23日発行)掲載の「パプア州における3州分立の背景を探る:「特別自治」の持つ意味の変化」で書きました。

プラボウォ国防大臣は、警察はすべての州にあるのに軍はない、鉱産資源などの違法採掘などの摘発を防ぐには警察だけでなく軍も各州でもっと役割を果たすべきだ、と発言しています。しかし、陸軍区の数を一気に倍増させる理由としては、説得力を欠いています。むしろ、国軍の近代化を通じた組織効率化が求められているときに、陸軍区数の倍増は逆行していると言えます。

いったい今、比較的治安が安定しているインドネシアで、陸軍区を倍増させなければならない緊急性の高い理由はどこにあるのでしょうか。なぜ、近年、急速に装備を近代化している警察だけではだめなのでしょうか。これから深刻な内戦が起こる兆候があるのでしょうか。

今回は、この陸軍区についての過去を振り返りながら、まず、その意義と歴史的推移を抑えます。次に、常に言われている国軍内部のポスト数に比した過剰人員状態について触れます。そして、1998年以降の民主化により、それまで国軍の一部だった警察が分立した後の軍と警察の微妙な関係をみた後、この陸軍区増設の背後に政治的な意味があるのかどうかについても考察してみます。

陸軍の兵士たち。(出所)https://maluku.inews.id/berita/kodam-xvipattimura-ambon-latih-ratusan-personel-untuk-jadi-prajurit-tni-ad-pembina-desa

●陸軍区の意義と歴史的推移

陸軍区(Komando Daerah Militer: Kodam)は、直訳すると軍事地域司令部となりますが、陸軍の領域管理区域であることから「陸軍区」を称しています。陸軍区のトップは少将クラスの司令官が務めます。

陸軍区の指揮命令下には地域大軍区(Komando Resor Militer: Korem)があり、地域大軍区の指揮命令下に地域中軍区(Komando Distrik Militer: Kodim)があり、地域中軍区の指揮命令下に地域小軍区(Komando Rayon Militer: Koramil)があり、地域小軍区の指揮命令下に村落駐在軍人(Babinsa)がいます。この陸軍の指揮命令系統は、民主化以前の時代から(おそらく日本軍政期から)全く変わっていません。

広大な群島国家であるインドネシアは、国土をいくつかに分けて、それぞれの地方を領域管理する形で国家防衛を果たさざるを得ません。そのため、陸軍区は重要な役割を果たすのですが、国軍参謀本部が陸軍区をしっかり管理・監督できるかどうかが重要になります。

ここで、過去の陸軍区とその数の変化をみていきましょう(表1)。

表1:陸軍区数の推移

(出所)様々なソースをもとに筆者作成。

独立宣言の後、オランダとの独立戦争時の陸軍区はスマトラ南部を管轄するスリウィジャヤ陸軍区とジャワ西部を管轄するシリワンギ陸軍区の2つだけでしたが、1949年までにジャワ島部を管轄するブラウィジャヤ陸軍区とジャカルタを管轄するジャヤカルタ陸軍区が、1950年にはジャワ中部を管轄するディポネゴロ陸軍区が加わります。なお、ジャワ島の陸軍区は現在に至るまで、このシリワンギ(ジャワ西部)、ディポネゴロ(ジャワ中部)、ブラウィジャヤ(ジャワ島部)、ジャカルタの4つの区分けが維持されています。

1950年代に入ると、スマトラ南部を管轄するスリウィジャヤ陸軍区のほかに、スマトラ北部を管轄するブキットバリサン陸軍区が1950年に設置されます。1956年になるとブキットバリサン陸軍区から分かれてアチェを管轄するイスカンダルムダ陸軍区ができます。1957年にはスラウェシ南部を管轄するハサヌディン陸軍区とバリ・ヌサトゥンガラを管轄するウダヤナ陸軍区が、1958年にはカリマンタン西部、カリマンタン東部、スラウェシ北部に陸軍区ができ、1959年にはスマトラ中部、カリマンタン中部にも設置されます。これらはいずれも、当時盛んだったダルル・イスラーム運動等による、ジャワ島外での地方反乱の鎮圧の役目を果たしていたと推測されます。

こうして、1959年時点で陸軍区の数は14区となり、1960年にマルク諸島を管轄するパッティムラ陸軍区、1962年に帰属が決まったパプアを管轄する陸軍区ができて、陸軍区の数は1962年で16区となりました。当然、冷戦下でジャワを中心に勢力を拡大させたインドネシア共産党と国軍との対抗関係が背景にあるはずです。そして、スハルト時代に入り、共産主義の撲滅を図るために、前述の陸軍区から村落駐在軍人(Babinsa)の指揮命令系統の下、村落までに至る住民監視体制が強化され、陸軍区の数が1985年まで20年以上16区のまま維持されました。

国軍による強力な住民監視体制が維持できたのは、1970年代の石油ブームによる財政収入の拡大の恩恵が大きかったものとみられます。しかし、1980年代に入ると石油価格は下落し、石油輸出で潤った時代が過ぎ、政府財政のスリム化と効率化が求められるようになります。

国軍もまたその影響を受け、陸軍区の数を16区から10区に減らすという大改革が断行されました。これにより、スマトラ、カリマンタン、スラウェシはそれぞれ1つの陸軍区となり、マルクとパプアがまとめられて1つの陸軍区となりました。他方、ジャワの4陸軍区とバリ・ヌサトゥンガラを管轄するウダヤナ陸軍区はそのままでした。後者については、管轄地域のなかに東ティモールが含まれていることが理由だったと見られます。この軍のスリム化には軍内部からの不満が強かったと想像されますが、スハルトによる強権政治は、そうした不満を抑え続けました。

陸軍区の数が再び増え始めるのは、スハルト政権が倒れ、民主化の時代になってからです。1999年、マルクでの宗教間紛争への対策として、マルクを管轄するパッティムラ陸軍区が復活します。続いて、2002年には紛争の続くアチェを管轄するイスカンダルムダ陸軍区が復活し、2005年にアチェ和平が達成されます。その後、2010年にカリマンタン全体を管轄するタンジュンプラ陸軍区からカリマンタン東部を管轄するムラワルマン陸軍区が分立します。そして、ジョコウィ政権下の2016年、スラウェシ全体を管轄するハサヌディン陸軍区からスラウェシ北部を管轄するムルデカ陸軍区が、パプア全体を管轄するチェンデラワシ陸軍区からパプア西部を管轄するカスワリ陸軍区が、それぞれ分立します。その結果、2016年以降現在まで、陸軍区の数は15区となりました。

現在の陸軍区の位置。(出所)https://id.wikipedia.org/wiki/Komando_Daerah_Militer

このように、その時々の紛争や経済状況などの影響を受けて、陸軍区の数は推移してきました。そう考えると、今回のすべての州に陸軍区を設置するという構想がいかに突飛なものであるかが想像できます。

すなわち、今回発せられた陸軍区大幅増設構想は、ポストに就けない大量の高級軍人という国軍の抱える人事上の構造的問題が最も大きな要因であると考えられるのです。以下で、それを見ていきます。

(以下に続く)

  • 民主化が引き起こした過剰人員問題
  • 軍と警察の微妙な関係
  • 政治的な意味はあるのか
  • 陸軍区大幅増設構想への疑問
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