よりどりインドネシア

2023年02月08日号 vol.135

いんどねしあ風土記(43):クロンチョン発祥の地・ポルトガル集落 ~ジャカルタ首都特別州~(横山裕一)

2023年02月08日 21:39 by Matsui-Glocal
2023年02月08日 21:39 by Matsui-Glocal

インドネシアを代表する大衆音楽クロンチョンは17世紀、オランダ植民地時代のバタヴィアの東郊外、現在の北ジャカルタで生まれた。発祥の地には当時の住民だったポルトガル人の血を引く子孫による集落が今も形成されていて、クロンチョンをはじめ独自の伝統文化が受け継がれている。オランダ植民地時代に生まれ、現代インドネシアにも息づくポルトガル集落の歴史と現在を辿る。

●ポルトガル集落「カンプン・トゥグ」

ポルトガル人の子孫が多く居住する「カンプン・トゥグ」と呼ばれる集落は、北ジャカルタのチリンチン地区にある。かつては森林地帯だったといわれるこの地も、現在は首都ジャカルタの物流拠点・タンジュンプリオク港の近くに位置するだけに、コンテナターミナルや運搬用のトラック、トレーラーの基地が数多く見受けられる。幹線道路は大型トラックが頻繁に行き来する。

「カンプン・トゥグ」(北ジャカルタ・チリンチン)

この幹線道路沿いに、「カンプン・トゥグ」を象徴するキリスト教教会がある。「トゥグ教会」と呼ばれる西インドネシア・プロテスタント・トゥグ教会(GBIP TUGU)で、建物は築約300年と歴史的建造物でもある。現在補修工事が行われている。説明してくれた教会関係者が不意に問いかけてきた。

「どうして教会の正面が大通りでなく、東側を向いているかわかりますか?」

大通りは教会の北側にあり、教会本堂の正面にあたる東側には小さな川が流れている。教会関係者によると、教会を建設した当時、一帯は森林が広がっていて、川が唯一のアクセスポイントだったという。この川は現在でこそ細く水が澱んでいるが、当時は川幅も広かった。教会建設のための木材も、海運の後、この川を経由して運び込まれた。現在ある北側の大通りは1970年代に整備されたものだという。まさに何もない森林地帯を切り拓いて教会ができ、それを中心に集落が形成されていったのである。

トゥグ教会

トゥグ教会正面に流れる川。奥の建物が教会。

ポルトガル人がなぜこのような地に住み始めたのか。この経緯は大航海時代の歴史を反映している。16世紀から17世紀にかけて、ポルトガルはマレーシアの交易拠点マラッカ(Melaka)を中心にマラッカ海峡一帯を支配していた。しかし17世紀半ば、オランダがこれを奪いとり、戦いに敗れたポルトガル兵は捕虜としてバタヴィア(現在のジャカルタ)へ連行されたという。そして1661年、バタヴィアのオランダ東インド会社による植民地政府は数百人のポルトガル人捕虜に対して、カトリックからプロテスタントへの改宗を条件に、現在の北ジャカルタ・チリンチン地区にあたる森林地帯の土地を与え居住するよう解放した。これがポルトガル人集落(後のトゥグ集落)の始まりである。ポルトガル人とはいえ、彼らは当時すでにマラッカなどで周辺国の民族やインド民族などとの混血だったとみられている。なお、オランダ統治以前の16世紀初頭、勢力を伸ばしていたポルトガル人が後のバタヴィアにあたるスンダクラパに居住しているが、これとトゥグ集落との関連は不明である。

定住したポルトガル人は、バタヴィアの先住民でもあるブタウィ民族らと交流を深め、混血が繰り返されていった。周囲の住民らはいつしかポルトガル人住民のことを、ポルトガル(Portuguesa)を略して「トゥグ」(tugu)と呼ぶようになった。また時代の流れ、他民族との交流を経てトゥグ集落の人々はポルトガル語とブタウィ語が混合した独自の言語、トゥグ・クレオル語を話すようになった。現在、トゥグ集落には数百人のポルトガル系住民が居住する。

オランダ植民地時代のトゥグ集落住民とオランダ人兵士(写真提供:Sariyando Quiko氏)

ポルトガル人集落と歴史を共にする現在の「トゥグ教会」は再建された3代目の建物だという。当初、教会は1678年に現在とは別の場所に建てられ、1738年老朽化に伴い新しく建て替えられた。しかし1740年、バタヴィアの中華系住民によるオランダ植民地政府に対する大規模反乱に巻き込まれて、同教会も破壊されてしまう。このため、トゥグ集落に移り住んだポルトガル人の牧師や住民らが中心となって1748年に再建されたのが現在の場所にあるトゥグ教会である。1960年、トゥグ教会はGPIB(西インドネシア・プロテスタント教会)の管理下に移行される。しかし、その後もこの教会がトゥグ集落の住民の心の拠り所であることに変わりはない。教会に隣接する墓地にはポルトガル系住民の先祖が代々眠っている。

●ポルトガルの血を受け継ぐ人々

教会脇にある牧師用住宅

かつての牧師用住宅前でのクイコ一族

トゥグ教会の本堂脇に牧師用の大きな家屋がある。この家に代々住んで教会を守ってきたのがクイコ家で、教会がGPIBに移行した後に教会前の川を挟んだ集落に移り住んでいる。しかし、代々牧師として集落住民の拠り所にもなってきたクイコ家は移転先の家も「ルマ・トゥア」(ポルトガル系子孫住民の本家)と呼ばれ続けている。

現在、トゥグ集落のポルトガル系住民の苗字には「ミヒルス」(Michiels)、「コルネリス」(Cornelis)、「アブラハムス」(Abrahams)などがあるが、いずれもオランダ植民地時代にオランダ系の苗字に変更されたものだ。そんななか、「クイコ」(Quiko)だけがポルトガルの苗字をそのまま受け継いでいる。これはこの地に来たクイコ一族の初代が宣教師だったためといわれている。

「ルマ・トゥア」の現在の若き当主サリヤンド・クイコ氏(34歳)はポルトガル系住民の半数以上を占めるクイコ一族の取りまとめ役でもある。母親はジャワ民族だが、大柄な体格や表情からはヨーロッパ系の血筋があることが窺える。トゥグ集落のポルトガルの血を引く人々は、女性を中心に嫁ぎ先の他民族の夫に従い改宗するものも多い。サリヤンド氏の妹も結婚を機にイスラム教徒になり、ヒジャブを着けていた。サリヤンド氏は言う。

「宗教は関係ないんです。大切なのは同じポルトガルの血を引く者同士の絆を深め、良好な関係を保っていくことなんです」

右からサリヤンド・クイコ氏、父親エドゥアルド・クイコ氏、母親ファティマさん。

サリヤンド氏の「ルマ・トゥア」で開かれる子供の誕生日会

1月下旬、サリヤンド氏の「ルマ・トゥア」では約30人の子供とその母親たちで賑わっていた。この日はサリヤンド氏の姪の誕生日会で、歌って祝い、それぞれにお菓子を配られていた。この姪はサリヤンド氏と同居はしていない。サリヤンド氏によると、姪に限らず、近所の子供たちの誕生日会はいつも「ルマ・トゥア」で開かれるという。これも400年の歴史を持つポルトガル系住民間の交流が「ルマ・トゥア」を中心に現在も脈々と続いている証ともいえそうだ。

トゥグ集落の住民に限らず「ルマ・トゥア」には、マレーシアのマラッカにあるポルトガル系住民コミュニティや歴史学者など国内外からの訪問者も多いという。サリヤンド氏は微笑みながらこう話す。

「私たちの歴史を知ってもらえるので、多くの客が来るのは嬉しいことです」

自宅の「ルマ・トゥア」で集落の歴史を説明するサリヤンド・クイコ氏

サリヤンド氏の隣で父親エドゥアルド氏がタバコをくゆらせている。タバコはインドネシア独自のクレテックと呼ばれる丁子入りのタバコだ。ポルトガル人の血筋を引き、独自文化を受け継ぐ一方で、400年の歴史の中で混血を繰り返し現地化してきた姿が窺える。エドゥアルド氏は「独自文化を持った子孫であることを誇らしく思う」と話した上でこう付け加えた。

「クロンチョンも父親から教わりました」

今やインドネシアの大衆音楽として確立したクロンチョンの発祥の地でもあるトゥグ集落。クロンチョンはトゥグ集落でのポルトガル系住民の独自文化を象徴するものでもある。そして、エドゥアルド氏の父親こそが現代クロンチョンの発展に大きく寄与した人物でもあった。

(以下に続く)

  • 大衆音楽クロンチョンの歴史
  • トゥグ集落のクロンチョン継承者
  • トゥグ教会にて
この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

いんどねしあ風土記(53):世界遺産「ジョグジャカルタ哲学軸」が示すもの ~ジョグジャカルタ特別州~(横山裕一)

2024年04月23日号 vol.164

ウォノソボライフ(73):ウォノソボ出身の著名人たち(2) ~女優シンタ・バヒル~(神道有子)

2024年04月23日号 vol.164

ロンボクだより(110):晴れ着を新調したけれど(岡本みどり)

2024年04月08日号 vol.163

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)