よりどりインドネシア

2023年01月22日号 vol.134

ウォノソボライフ(59):喉元過ぎれば・・・? ~Sさんの見たコロナ禍の景色~(神道有子)

2023年01月22日 19:49 by Matsui-Glocal
2023年01月22日 19:49 by Matsui-Glocal

2022年は皆さんにとってどんな年だったでしょうか?

私のところでは、自宅でオンライン授業だった前年の規制が少しずつ緩められ、交代制の少人数登校、そして完全通常授業へと移行していきました。

子供たちの間では年末にかけてラトラト(lato lato: アメリカンクラッカー)が大流行し、今でもそこかしこでラトラトを鳴らすカチカチという音を耳にします。ソーシャルメディアでは、「遠く離れた閑静なリゾート地へ行ってみたいね、ラトラトの音から逃れるために」などというジョークがバズるほど。ラトラトは全国的な流行だとは思いますが、他の地域ではどうなのでしょうか?

そんななか、去る2022年12月30日、インドネシアはこれまで長く施行してきた国民活動の制限(Pemberlakuan Pembatasan Kegiatan Masyarakat、略してPPKM)を終了すると発表したのです。

PPKMでは店の営業時間、収容人数、スクリーニング方法の提示など、あらゆる場面での制限を細かく決めていました。最初は期間限定だという話も聞こえてきつつ、ずっとそれが延長され、社会に定着してきたものです。そのPPKMの終了というのは、2020年初頭から始まったコロナ禍の一つの区切りを感じさせます。

もちろんコロナは消えたわけではありません。相変わらず感染者は出続けています。しかしワクチンの普及もかなり進み、マスク着用などの衛生プロトコルも認知され、当初のようなパニックはもはや見られません。

そんな今だからこそ、とある1人の人が巻き込まれた『コロナ戦線』を紐解いてみたいと思います。

●「感染第一号」の枷

Sさんとは、昨年くらいに趣味の活動を通して知り合いました。Sさんはウォノソボ生まれの人ですが、家族構成が私と似ているところがあり、共通の話題もあってよく話すようになったのです。

何度か会い、我が家に遊びに来てもらうなどするうちに、Sさんが「そういえばね・・・」と切り出しました。

なんと、Sさんはウォノソボでの最初のコロナ感染者の親御さんだったのです。そのニュースのことは私も覚えていました。何しろWhatsApp(LINEのようなメッセージアプリ。当地ではLINEなどよりこちらが主流)で同じ話題があらゆるグループでシェアされていたのです。まだまだ、「国は大変なことになってるみたいだけど、ここは田舎だし、内陸だし」と、皆どこかゆったりと構えていた時期のことでした。急にそれが身近なものになった、まさに青天の霹靂といえる出来事でした。

Sさんの子供さんは当時仕事でジャカルタにいました。そこで感染していたようで、こちらへ帰ってから陽性とわかったのです。その点も地元メディアで報道されていました。一種、「ウォノソボにコロナを持ち込んだ戦犯」のような立ち位置であったと言います。

「ジャカルタから帰って、陽性とわかる前に私たち家族とも会っていたから、当然私たちも濃厚接触者になったよ。そこも報道されていて、皆が何を言いたいのかを痛いほど肌で感じました」

Sさんはあくまで笑いながら、当時のことを振り返りました。

「家族全員検査をしたけれど、皆、陰性でした。もちろんなんの症状もなく、体は至って元気そのもの。でももう、陽性者を出した家という事実は消せませんでした」

「とにかく私はすぐに家中あらゆるところを消毒して回ったんです。壁も床も家具も、門扉だって。でも、全身白い防護服に身を包んだ人たちが土足で家に上がり込んできて、農薬を撒くような機械で家中をシューシューと消毒していく姿は衝撃的でした。私たちにとっても、ご近所さんにとっても。ああ、大変なことが起こってしまった場所なんだって、改めて思い知らされました」

Sさんたち自身は陰性でしたが、しばらく隔離期間が必要となりました。家から出ずに過ごさねばなりません。食糧などは村の人が家の前まで届けてくれることになりました。

「袋に入れられて門に引っ掛けられている野菜を取るために、私が玄関から出たときです。それまで道端で立ち話をしていた近所の人たちが、サッと家の中に入っていくということが何度もありました」

通常であれば、ご近所同士が顔を合わせたら、二言三言なにか言葉を交わすのがマナーです。同じ場所に居合わせながら何のアクションもしないというのは、敵意があると捉えられるような行為といえます。

「ショックでしたね。昨日今日知り合ったわけじゃないんですよ。もう何年も何十年も、天気の良い日も悪い日も一緒に過ごしてきた人たちです。互いの子供が赤ちゃんだった頃のことも覚えてる。それが、もうまるで知らない国の人のように見えました」

当時はたしかに、対面でのコミュニケーションを控えるよう指導されていました。集まることも禁止され、あらゆる村の活動が凍結されていた時期です。ましてや、陽性者の濃厚接触者となれば、さらに注意が必要でしょう。

「ソーシャルディスタンスはわかりますよ。でもね、目も合わせない、会釈もしないというのは、もうそういうのじゃないでしょう」

私の住む村では、あの頃は、どちらかというと「外部の人や外部へ行く人が危険なのであり、村の人同士であればさほど心配することはない」という認識がありました。農家や職人など、仕事場が自宅や村内にあるので、特別な用事がない限り、村から出ずに生活する、という人が多いためです。

食材や生活に必要な雑貨なども、贅沢を望まなければ一通りは村内で揃います。村で完結する生活をしている人にとって、コロナはまさに「外の世界にあるもの」でした。そのため、集まる行事は禁止されていたものの、ご近所同士の井戸端会議などは普通に行われていたのです。

おそらく、Sさんの村でも似たような感覚があったのではないかと推察します。汚染されていないはずの村。そのなかで、Sさん一家は「異質な」「外部の」人間と見なされてしまったのかもしれません。

隔離期間が明けてもそれはしばらく続きました。

「家にいるのが辛かった。怖かった。でも他に行き場所もない。私たちについて、誰がどこで何を言ってるんだろうって悪い想像が止まりませんでした」

「ウォノソボ内の他の感染者について、何か責任を問われるんじゃないかなんて考えたりもしました。本当に悪いのだけど、よその地域で感染して帰ってきて発症した人たちが出たときに、ホッとしました。我が家のせいじゃないから」

陽性となった子供さんも無事回復し、なんとか立ち上がっていこうとした頃。

「家族から、また感染者が出ました。」

(以下へ続く)

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