パンティ・アスハン(Panti Asuhan)という言葉や場所をご存じでしょうか。インドネシア語で「孤児院」あるいは「託児施設」を意味し、子どもを預かる場所のことです。もともとは、親のいない孤児(anak yatim piatu)を預かって育てる「孤児院」の意味合いが強かったのですが、現在は、必ずしも孤児だけでなく、親が様々な事情で育てることができなくなった子どもたちを預かる「託児施設」としての性格が強くなっています。
政府は、パンティ・アスハン(Panti Asuhan)という言葉以外に、高齢者施設も含めた「社会施設」(Panti Sosial)、あるいは社会福祉施設(Lembaga Kesejahteraan Sosial: LKS)という言葉を使っており、子どもを対象とする社会福祉施設を児童社会福祉施設(LKS Anak: LKSA)と呼んでいます。LKSAは新しい用語です。
ジャカルタのアル・リサラ財団が運営するパンティ・アスハン。(出所)http://www.arrisalah-jakarta.com/mengenal-lebih-dekat-panti-asuhan-ar-risalah/
政府によると、2019年時点で、インドネシア全国の4,864ヵ所の児童社会福祉施設(LKSA)において10万6,406人の子供たちが生活しています。ちなみに、日本の児童養護施設は2019年時点で全国に605ヵ所あり、約2万5,000人が生活しています。
日本と比べると、インドネシアの多くのパンティ・アスハンは規模が小さく、設備も整っておらず、十分な居住環境が確保されていない印象を持ちます。それは、パンティ・アスハンのほとんどが個人や団体からの寄附に依存した民間団体によって運営されており、財政基盤が不安定であることが背景にあります。
日刊紙『コンパス』(KOMPAS)は、10月31日~11月2日まで「聞かれない声」(Suara Tak Terdengar)というルポルタージュ特集記事のなかで、パンティ・アスハンの問題を多角的に報じました。そこでは、パンティ・アスハンの現状、運営上の問題、パンティ・アスハンで起きた子どもに対する性的虐待や暴力の問題、政府の対応や政策の評価などが記述されています。今回は、それらの記事をもとに、経済社会発展や所得向上の陰で見落とされがちな、インドネシアの忘れられた子どもたちに焦点を当ててみたいと思います。
●始まりは植民地時代の孤児院
インドネシアで最初のパンティ・アスハン(Panti Asuhan)は、1832年10月17日にイギリスから来たミショナリーのウォルター(Walter Henry Medhurst)牧師が設立したパラパタン孤児院(Parapattan Orphan Asylum)とされます。場所はジャカルタの中心部、現在のクラマット・クウィタン通りの北側のプラパタン(Prapatan)地区と思われます。このパンティ・アスハンは、現在もジャカルタのオットー・イスカンダルディナタ通りにあり、運営するパラパタン財団はジャカルタ首都特別州で最良の社会団体の一つとされています。
現在のパンティ・アスハン・パラパタン。(出所)https://larismanis.com/listing/panti-asuhan-parapattan-jakarta/
パラパタン孤児院が作られた後、ジャカルタやマゲランなどに孤児院がつくられていきますが、これら孤児院に引き取られた子どもの多くは、オランダの軍人と現地女性との間に生まれた「インド」(Indo)と呼ばれた、親が誰かも分からない混血児でした。彼らはヨーロッパ人と現地人の狭間に放置されながらも、孤児院を通じて少なくとも学校で初等教育を受けることができ、その後、植民地軍に入って軍人となり、軍曹になる者も出たということです。
1916年頃からはイスラームのウラマー団体も孤児院の設立を開始し、1931年7月に「ムスリム孤児の家」(Roemah Piatoe Muslimin)という名の孤児院が、同年8月に「ダールル・アイタム」(Daaroel Aitam)という名の孤児院が相次いでジャカルタに設立されました。前者はスネン地区、後者はタナアバン地区に今も存在しています。イスラーム系の孤児院設立の背景には、孤児の資産がオランダ植民地政府の監視下に置かれて15%課税されるなかで孤児を守らなければならなかったこと、水面下で一夫多妻が盛んになって未登録児が多数生まれてしまったことなどがありました。
以上のように、パンティ・アスハンはもともと孤児院としての性格の強い施設でした。そして、それは、キリスト教ミッショナリーやイスラーム団体など宗教系の慈善事業として開始された後、植民地支配や独立戦争の終結を経て、その性格を託児施設へと変化させながらも、現在まで続いてきているのです。
●孤児院から託児施設へ
パンティ・アスハンは、時代の変化とともに、孤児院としての役割からより広い託児施設としての役割へと変化していきました。戦争の時代が終わり、孤児自体が少なくなったこともありますが、現代では、様々な理由で親が子どもを育てることができず、パンティ・アスハンへ預けるケースが多くなっています。その理由には、親との死別や両親の離婚、家庭内暴力など家族をめぐる様々な問題がありますが、貧困の問題が最も大きな要因となっています。
政府は、パンティ・アスハンへ子どもを預けるのは最後の手段と位置づけています。すなわち、まずは親、それが無理ならば祖父母や兄弟姉妹などの親族、それも無理ならば里親、それでも無理ならばパンティ・アスハンへ、という形を基本にしています。しかし、時代とともに、インドネシアでも家族の在り方が変わり、また経済的な理由なども加わり、親や親族に子どもを預けない、預けられないケースが増えているのではないかと推察します。
『コンパス』で取り上げられたケースの多くは、両親はいるのに、パンティ・アスハンへ子どもを預けるケースです。その目的の一つは、パンティ・アスハンを通じて、子どもたちに教育を受けさせるためです。
たとえば、1958年設立のジャカルタのタナアバン地区のパンティ・アスハンで預かる子どもたちは、大半がジャカルタの外からの経済的に貧しい家庭の子供たちで、彼らは近所の人から聞いたり、孤児院出身者から推薦されたり、インターネットで探したりしてやってきたと言います。子どもたちの親の職業は運転手、家政婦など様々ですが、なかには1ヵ月の収入が100万ルピアしかなく、一人分の子どもの学費すら払えないのに子どもが何人もいる、といった人もいます。経済的な理由で子どもに教育を受けさせられない親が、パンティ・アスハンに子どもの将来を託しているような形です。
パンティ・アスハンの子どもたちは、高校まで教育を受けると、多くの場合は親元へ戻り、自立することが多いようです。中ジャワ州クンダル県のパンティ・アスハンでは、施設を出た後で努力して地方銀行の支店長になった男性が子どもたちのロールモデルになっています。他方、教育を受けても、中退する者も少なくはありません。また、高校を出てもパンティ・アスハンに居残り、そのまま施設の管理者になったり、管理者の補佐役になったりする者もいます。
他方、パンティ・アスハンに預けられた子どもの多くは、貧困や家庭に問題があると世間から見なされるので、預けられた自分を恥ずかしく思う気持ちがあるといいます。そのため、自分に自信が持てず、社会に出ても孤独で自尊心を持てないという面もあります。
新型コロナウィルス感染拡大は、パンティ・アスハンの経営危機を招きました。施設の多くが個人や民間などからの寄附に頼っており、その寄附額が大きく減少したためです。たとえば、南スマトラ州パレンバン市のパンティ・アスハンは、コロナ前は毎年1,300~1,800万ルピアの補助金を受けていましたが、コロナ後は補助金が一切なくなりました。多くのパンティ・アスハンで寄附が減少したため、自前財産を売却したり、お菓子や食べ物を作って売ったり、子どもたちの食事を確保するために大人は塩とご飯で済ませたりと、涙ぐましい努力を様々に試みながら、経営を維持させようとしてきました。
コロナ禍で収入が減って経済的に苦しい状況のなか、何とか子どもに教育を受けさせるためにパンティ・アスハンへ頼ろうとする人々は増えたに違いありません。一方、パンティ・アスハンは寄附が大きく減少して、経営的にますます難しい状況になっています。政府は貧困層へ社会的援助(Bantuan Sosial)として現金給付などを行いますが、貧困層の子どもが教育を受けるための一縷の希望となったパンティ・アスハンは、そうした圧力を一気に受け止めざるを得ない状況に置かれたことは想像に難くありません。
パンティ・アスハンは、孤児院から貧困家族の子どもを預かり、教育を受けさせる託児施設へと性格を変えたのでした。しかし、パンティ・アスハンの置かれた現状は改善することもなく、コロナ禍で必死に耐え忍んでいたのでした。それが後述のパンティ・アスハンにおける子供への性的虐待や暴力に至らしめるものだったのかどうかは、判断がつきません。
(次に続く)
- パンティ・アスハンの闇-虐待と暴力
- 政府の対策と問題点
読者コメント