よりどりインドネシア

2022年09月22日号 vol.126

いんどねしあ風土記(38) 東ティモール独立20年(前編):不屈の報道記者たち ~東ティモール・ディリ~(横山裕一)

2022年10月05日 19:25 by Matsui-Glocal
2022年10月05日 19:25 by Matsui-Glocal

東ティモールがインドネシアから独立して20年を迎えた。300年余りにわたるポルトガル植民地を経て、その後武力併合したインドネシアとの武力闘争、独立運動の末に勝ち得た国家独立。現在、政情不安を反映して経済は悪化しているが、首都ディリの街には人々の平和な息づきが感じられる。

1999年に実施された住民投票で独立が決まった直後、ディリをはじめ東ティモールはインドネシア国軍を背景にした併合派民兵によって破壊行為が行われ、多くの独立派住民が命の危機にさらされた。独立派、併合派に分かれた東ティモールの人々の当時、その後を描く。

●独立20年の首都ディリにて

バリ島デンパサールから飛行機で約2時間、窓の下には木がまばらで地表の見える山並みが現れる。実に2001年以来、21年ぶりの東ティモールの懐かしい山並みである。小スンダ列島の東端のティモール島の東半分(一部飛び地あり)が21世紀に最初にできた国、東ティモールである。南にはティモール海を挟んでオーストラリア大陸がある。

東ティモール位置(Google Mapsより)

空港から首都ディリへと続く道路はきれいに舗装されていて、時には片側2車線の広い部分もある。ディリの街に入ると建物は新しく建て替えられているが、低層の店舗や住宅が並ぶ懐かしい風景が広がる。しかし、所々きれいな店舗やレストランが並んでいたり、自動車の交通量が増えているのには時間の流れを感じされられる。日本から輸出された中古車が多くを占めるという。通勤時間帯には一部で渋滞も起きるとのことだ。

ディリの街並み。自動車が増え、高層ビルの建設も数ヵ所で進む (写真下)

街の数ヵ所では高層ビルが建設中である。ポルトガルや中国資本、それに東ティモールの石油会社関連によるものだ。またディリで最初のショッピングモールもできていた。5階建ての建物は商店の他にホテルも入る複合施設である。かつてのインドネシアの辺境の地の一都市から、一国の首都に向けて確実に都市化が進められているようにも感じられる。

ディリ初のショッピングモール

際立って目立つのが中国資本の流入である。ディリのバナナ園通り(Rua Hudi Laran)と呼ばれる通りには独立前まではバナナ園が広がっていたが、現在では約3キロにわたって中国人による生活用品などの店舗や事務所が通りの両脇に延々と並んでいる。このため、「バナナ園通り」を住民は「中国園通り」と呼んでいるほどだ。海岸沿いにあるきれいに整備された運動施設は中国が寄付したものだが、「将来をシェアするための中国援助」との看板が掲げられている。

中国資本の店舗などが並ぶ「中国園通り」

中国が寄付したスポーツ施設

街が都市化しつつある一方で、住民レベルの経済状況は決して向上していないという。特に2017年以降、少数与党による内閣が短命に終わるなど政情が不安定になって経済は悪化し、2020年の世界的な新型コロナウィルスの流行で拍車がかけられた。物資のほとんどを輸入に頼っているため物価も高く、政府が決めた最低賃金は月115ドル(国の通貨はアメリカドル)だが1ヵ月の生活には十分ではない額だという。慢性的な仕事不足のため、多くの若者が欧州や韓国、オーストラリアなどに出稼ぎに出ている。ショッピングモールもできたが値段が高いため、一般の住民は街に数ヵ所ある道路脇に並ぶ古着の屋台で衣服を一着10ドル以下で購入しているのが現状である。

ディリ北部にある海岸沿いは、夕方から夜にかけて人々の憩いの場になっている。木陰の護岸に腰掛けて語らう人々や飲食する人で賑わう。海岸沿いには数百メートルにわたってテントの屋台が並んでいる。屋台のほとんどにはインドネシア製のインスタントコーヒーや即席麺、お菓子などが販売されているが、東ティモール特産のコーヒーもあった。

海岸で夕涼みする住民たち

海岸沿いでテント屋台を経営する夫妻

屋台の一つを経営するジョンさん、マルティナさん夫妻は2017年から商売を始めたという。子供は7人ですでに成人し、3人はオーストラリアと韓国へ出稼ぎ中で、2人は大学生、残る2人は無職だという。屋台は24時間営業、夫婦でテントに寝泊まりし、自宅へ戻るのは教会でミサのある日曜日のみ、それも夫婦交代で行き来するという。マルティナさんは注文を受けたインスタントコーヒーの入ったグラスにお湯を注ぎながら、たくましい表情で言った。

「お金を稼がなくっちゃね」

生活は厳しくとも、屋台の夫妻を含め、街ゆく人々の表情は確実に独立前とは異なり、穏やかな表情が印象的である。これも東ティモールの人々が辿ってきた独立を巡る歴史が大きく影響しているといえそうだ。

●『ティモールポスト』~東ティモール独立史(1)

ディリの海岸近くの小さな公園前に地元新聞社『ティモールポスト』(Timor Post)の事務所がある。玄関に入ると14人が並んだ写真の額が掲げられている。国連のもと実施された住民投票で独立が決まった翌年の2000年、『ティモールポスト』を設立した記者たちの肖像写真だ。

『ティモールポスト』本社事務所に飾られた、創立に携わった記者たちの写真

彼ら、彼女らはインドネシア時代、『東ティモールの声』(Suara Timor Timur)という新聞社に勤務していた。オーナーはインドネシア併合派だったが記者はほとんどが独立派で、メディアとしての公正さを保ちながらも独立派の声も確実に紙面に反映させる努力を続けていた。インドネシア政府による情報統制が厳しい中、東ティモールで何が起きているかを発信し続けた。海外メディアの現地取材が禁止されていたため、海外メディアに記事を送り続けてもいた。このため、政府や国軍諜報部に目をつけられて監視も厳しく、危険を伴っての独立派取材を強いられた。まさにペンを唯一の武器として闘う記者たちだった。『ティモールポスト』設立当時、彼らは皆20代から30代の若者だった。まさに東ティモール情勢が急変した1970年代を前後して生まれた世代だった・・・。

東ティモールは大航海時代の16世紀以降、ポルトガルの植民地になった。当初、ポルトガルがティモール島全体を支配していたが、その後オランダとの争奪戦を経て、ティモール島の西部をオランダに割譲した。その際、ポルトガルが最初に同島に上陸したオエクシ地区はポルトガル領として残したため飛び地ができ、現在の東ティモールの領域ができあがった。第二次世界大戦時、日本軍が一時占領したが、日本敗戦後はポルトガルが再び植民地として領有を続けた。一方、オランダ植民地だった西ティモールはインドネシア独立後、インドネシア領となった。

東ティモールを巡る事態が急変したのは1974年だった。ポルトガルでカーネーション革命と呼ばれる軍事クーデターが起き、植民地統制が揺らぐ。一方、独立の機運が高まった東ティモールの住民は政党を設立し、1975年11月28日、東ティモールの独立宣言をする。しかし、ほぼ同時期にインドネシア国軍が東ティモール侵攻を始め、全土を武力制圧。1976年7月にインドネシア27番目の州として併合宣言をした。国連は一方的な武力併合を認めなかった。このため海外メディアもディリを「州都」ではなく「中心都市」という表現で報道した。しかし、東ティモール独立派の主要政党が当時左派だったため、日本を含めた欧米の西側主要国は、東西冷戦の最中、反共政策を進めるインドネシアのスハルト政権との関係を優先して、武力併合を事実上黙認した。

インドネシアによる併合後も、東ティモール独立派のファリンティル(東ティモール民族解放軍)は山間地に入って、シャナナ・グスマン司令官のもとゲリラとしてインドネシア国軍に対して抵抗を続けた。インドネシア国軍は独立派とみなした集落の掃討作戦や、人口抑制策として女性に避妊薬接種などを行った。1999年までの約25年間に及ぶ独立派に対する弾圧で、約20万人の住民らが死亡したといわれている。しかし当時、インドネシア・スハルト政権の情報統制で実態はほとんど明らかにされなかった。

東ティモール問題が再度人権問題として国際世論に注目されたのが、1991年11月12日に起きたサンタクルス事件だった。インドネシア国軍に射殺された独立派青年の埋葬のため、ディリのサンタクルス墓地に参列した住民や独立派のデモ隊が国軍兵士から一斉射撃を受けた。死者は270人以上ともいわれている。当時、イギリスのジャーナリストが事件の様子を撮影していて、銃撃から逃れようと墓地の入り口に折り重なるように殺到する様子、傷ついた住民の姿が世界に放映された。この映像を機に国際批判が高まり、東ティモールでは独立運動がさらに高まっていく。

サンタクルス墓地。事件を撮影した場所に新たに碑が設けられていた (写真下)

現在、ディリにあるサンタクルス墓地では、かつての事件で多くの住民が逃げ惑った正面の門や外壁をモニュメント化する改装工事が行われている。また墓地内にはイギリスのジャーナリストが事件を撮影した場所に記念碑が建てられている。そこには次のような言葉が刻まれている。

「時に尊厳は世界を変えうる」

国際世論を反映して1996年には、海外で独立運動を展開したラモス・ホルタ氏とディリで独立派の精神的支柱だったシメネス・ベロ司教の2人の東ティモール人がノーベル平和賞を受賞する。しかし、インドネシア国軍はさらに独立派に対する弾圧を強め、国軍によるとみられる夜間の独立派住民の誘拐などが相次いだ。これを恐れた住民も夜間外出する者はほとんどいなくなった。筆者が初めて東ティモールに取材に訪れたのは1998年12月。日中でも街行く人の表情にはどこか抑圧されたような色が窺えた。夜間、独立活動家の住宅にインタビューに行った際も近くで車を止め、付近に誰もいないことを関係者が確認してから移動するという念の入れ様だった。

(以下に続く)

  • 闘う記者たち~東ティモール独立史(2)
  • 大脱出
  • 『ティモールポスト』設立へ
  • 『ティモールポスト』その後
  • ロロサエの海岸近くで

 

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