よりどりインドネシア

2022年08月08日号 vol.123

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第47信:ジョコ・アンワル作品試論(その3)~神をも恐れぬ映画作家の望みは何か?~(轟英明)

2022年08月10日 21:18 by Matsui-Glocal
2022年08月10日 21:18 by Matsui-Glocal

横山裕一様 

日本では猛暑とコロナ禍の第7波が同時進行中ですが、ここジャカルタ近郊のチカランでは季節外れの雨が時々パラつく程度で、異常気象もコロナ禍とも無縁のような日々を過ごしています。フェイスブックをチェックする限り、横山さんは時々インドネシアの国内旅行もされているようですが、地方においても異常気象やコロナ禍とは無関係な状況のところが多いのでしょうか。また、この連載の趣旨に沿った質問ということでは、地方の映画興行の実態についてまだお伺いしたことがありません。この連載でも横山さんの方から書かれたことはなかったと思います。

1990年代後半から2000年代にかけて、大都市か地方都市かを問わず独立系の映画館は次々と閉鎖に追い込まれ、今や地方でも映画館=ショッピングモールのシネコンという状況になって久しいです。シネコンの快適さと利便性については説明するまでもないものの、個性的な作品や観客を選ぶタイプの芸術作品が上映されにくいという欠点は、日本においてもインドネシアにおいても変わりません。また、地方の町では夜市に併設して盛んに行われたという野外上映(layar tancap)もこの20年間で激減したと聞きます。私よりも遥かにインドネシアの各地を旅されている横山さんからは、地方での映画興行の実態についても、この連載の場を借りていろいろご教示していただければ幸いです。

今回このようなお願い事から始めたのは、実は間もなく私自身が日本へ本帰国するためでもあります。日本でもインドネシアでも動画配信サービスが非常に充実してきたので、日本へ帰国後も新旧作品にアクセスすることはさほど困難ではないと楽観視しており、引き続きこの連載を継続したいと思っていますが、ただ、「現地の映画館で映画を観ることの悦楽」からはどうやっても遠ざかってしまいます。こればかりはどれだけ現地の批評や感想をネット上で検索しようとも、なかなか得られないものです。新作映画のレビューとともに、映画館の観客の反応や上映形態など、ナマの情報を横山さんから教えていただければと願う次第です。

ところで、第39信で私が追悼した映画評論家の佐藤忠男さんについて、朝日新聞デジタルの記事を先日たまたま見つけました。

有料記事ですが、以下の部分だけ引用させてください。

「アジアの映画は、命がけで見なくてはいけない」。そんな佐藤さんの言葉を回想したのは、同大映画学部長で国際映画祭のディレクターも務める石坂健治さんだ。

石坂さんは1996年~97年に都内のミニシアターなどで韓国映画を一挙に上映した「韓国映画祭」に向け、夫妻の作品探しのソウル旅に同行した。夫妻は朝から深夜まで正座して作品を見続けていた。ある日、石坂さんが夕食時に外出し、ほろ酔いで戻ると、2人は映画を見続けていた。

「奥さまが厳しくて。後で佐藤さんからも叱られました」。そのとき告げられたのが「命がけ」の覚悟だった。佐藤さんは戦時中、飛行兵に志願した軍国少年だったが、戦後は、戦争の歴史を常にふまえた戦中派の視点を持ち続けた。

世界のどこにいても気軽に異国の映画に接することが可能な時代に生きていることは、僥倖には違いありません。そして、佐藤夫妻のように正座して「命がけ」でアジアの映画を観ることは、もはや時代錯誤な行為なのかもしれません。

しかし、娯楽映画であろうと芸術映画であろうと、一本一本の映画にはそれこそ無数の映画人の想いが込められているのであり、佐藤夫妻のような「命がけ」は無理にせよ、たとえ現地の空気を体感できなくても、真摯かつ無心な気持ちで常に作品に向き合う本気の批評を、帰国後に日本から届けたいと今の私は強く願っています。

**********

さて、前置きはここまでとして、前回第45信の続きを再開しましょう。

『呪いの地の女』(Perempuan Tanah Jahanam)台湾版ポスター。インドネシアではNetflixで配信中。imdb.com より引用。

ガドガド・ホラー2.0の最高傑作のひとつ『呪いの地の女』(Perempuan Tanah Jahanam、以下『呪い』と記す)について、その技術的水準の高さと、ホラー映画を規定する最も重要な要素である「何が観客を恐怖に陥れるのか?」という問いから、2回にわたって分析してきました。今回は敢えて『呪い』の欠点について指摘すると同時に、脚本・監督を務めたジョコ・アンワルのフィルモグラフィーにおいて『呪い』がどのような位置づけにあるのか、論じてみたいと思います。横山さんが第46信で指摘した「蛇足的なラストシーン」に関し、私の解釈も説明しますので、毎度のことながらネタバレ御免の前提でこの後は読んでいただくよう重ねてお願いします。

ジョコ・アンワルという映画作家を論じるうえで、過去作の結末提示、さらには彼のプライベートにも言及せざるを得ませんので、何も知らずに真っ新な状態で彼の作品を楽しみたいという読者はここで引き返していただければ幸いです。

それでは、阿鼻叫喚の世界へ再び参りましょうか・・・。

『呪い』の脚本の素晴らしさについては前回詳細に論じましたが、横山さんはある「プロットホール」に気づかなかったでしょうか。ストーリー上の論理矛盾や欠陥のことです。一見、非常に整合性の取れたストーリーであり、仏教的と形容したくなるほどの因果応報を観客に説く物語なのですが、私は初見時に何かひっかかるものがありました。

あまりに整合性が取れすぎてないだろうか。ジグソーパズルの一片が綺麗に全体の中に収まるかのように辻褄がすべて合うのはむしろ何か変なのでは?

うまく言語化できないこうした疑問を胸に2回目を見直したところ、主人公ラハユことマヤの身体に惨殺された幼女たちの霊が入り込んだ場面で、私はようやく気づきました。幼女たちが経験していない、見ていないことまでマヤは見ていることに。

幼女たちの視点や記憶をマヤも見ているはずなのに、実は幼女たちも見ていないし知らないはずのシンタとサプタディの情事やニ・ミスニの呪術行為までもマヤは見ていることに。すなわち、脚本監督のジョコ・アンワルの視点があまりにも露骨に露出しているのが、幼女たちがマヤの身体に入り込んでいる場面なのです。

『悪魔の奴隷』では邪教の実態を伝聞情報だけに留め、蘇った死者たちをぼんやりとしか見せず、観客を意図的に曖昧な宙づり状態におくことでじわじわと怖がらせることに成功したジョコ・アンワルですが、『呪い』においては全てを観客に見せることで、悪事には必ず因果応報がつきまとう、ある種の論理的一貫性を追求したのでしょう。その結果、最初から最後まで非常にすっきりした展開にはなったものの、登場人物の誰の視点でもないイメージをああもあからさまに観客に見せてしまうのは、この恐怖の物語の「神」とも言える脚本家の存在を見せつけることに他ならず、やや興ざめといえなくもありません。要はご都合主義や作為性が過ぎるのではないかということです。

とは言え、ストーリーの展開上、あのような方法でしかマヤが呪いを解く方法を知ることはできなかったでしょうし、効率的な説話行為の面からも、マヤと観客の双方にとって納得のいく説明には違いありません。

共同体における呪いの連鎖を断ち切るためには初期の犠牲者の慰霊と弔いこそが必要であり、それらがなされてはじめて因果応報というメビウスの輪から逃れられる。『呪い』という作品のメッセージがこのようなものである以上、私が指摘したプロットホールは重箱の隅をつつく程度の枝葉末節にすぎず、作品そのものの大きな瑕疵ではないとも結論付けられるのかもしれません。この点について、横山さんがどう考えるか次号で教えていただければと思います。

『呪い』の一場面。マヤは幼女たちの霊に導かれ呪いを解く方法を知る。imdb.com より引用。

横山さんが指摘した「蛇足的なラストシーン」をこのような因果応報の観点から私なりに解釈するならば、それはホラー映画の定番、あるいはお約束事という意味に留まらないものが含まれているのではないでしょうか。ゴッドマザー又は凶悪すぎる鬼婆と呼ぶのが相応しいクリスティン・ハキム演ずるニ・ミスニは、溺愛する息子サプタディが自害するのを目前で見てすぐに後を追うのですが、この死にざまも強烈で、もはや狂気の愛としか形容しようのないものです。

息子を支配する母親の表象ということでは、アルフレッド・ヒッチコック監督の古典『サイコ』を想起させるほどの強烈なキャラクターであり、彼女の怨念が1年後に妖怪として蘇るのは何ら不思議ではないと思います。そして、「彼女に新たな恨みが発生した要素が理解できない」と横山さんが書いているのは、まさしくその通りで、それこそが不条理というものではないでしょうか。

邪悪な呪いは個々人を不幸にするに留まらず、共同体全体を恐慌に陥れ狂気を呼び寄せてしまう。不幸の連鎖を解く方法はただ一つ、そもそもの始まりの犠牲者を正しく弔うほかになし。このように観客に因果応報の教えを汲んで含めるよう実に分かりやすく説くのが『呪い』という極上のガドガド・ホラー2.0作品の特徴であり、実はかつて日本映画の黄金時代に製作された数多くの怪奇ものも同様の教訓話でした。このジャンルの古典的傑作とされる中川信夫監督の『東海道四谷怪談』がその代表作であり、さらに他の国にも視点を広げるならば、インドネシア同様、怪奇映画の制作が盛んなタイにおいて1960~80年代に制作された作品の多くがこうした因果応報ものでもあったことにも留意すべきでしょう。宗教や伝統的道徳に根差したこうした教訓話は、各国での近代化の進展に伴い、古臭い価値観として映画の主題としては徐々に後景に退いていきました。しかし、冷戦終結後のグローバリズム全盛期になって世界各地で宗教の復興現象が同時発生し加速した事実は、因果応報の全くない不条理な世界に実は人間が耐えられないことを証明しているとも言えます。

『呪い』のラストシーンにおいて、ニ・ミスニが胎児を喰らう吸血妖怪として「転生」するのは、条理を説いていったんは終わったはずの物語が、実は終わっていなかったと告げるだけに留まらず、この不条理こそが世界の真実であるとのジョコ・アンワルからのメッセージと解釈すべきでしょう。決して「蛇足」ではありません。ホラー映画の定番をなぞったようでありながら、その実、反対のメッセージも巧妙に忍ばせているのが彼の作風だからです。

ここで再び『呪い』の物語の真の起点がどこにあったのか、思い出してみましょう。映画内では、ニ・ミスニ自身の口から、豪邸の前当主から何度も犯された結果生まれたのがサプタディであることが明かされます。彼女は直接的な恨みこそ告白しないものの、廃墟となった豪邸や人皮ワヤンの存在が示しているのはジャワの封建的な身分制度や伝統文化への嫌悪感であり、それに対する痛烈な批判です。人身御供を要求し身分制を肯定するのがジャワ伝統文化であり、人皮ワヤンこそはその象徴であると解釈することすら可能かもしれません。この文脈において、ニ・ミスニとサプタディは伝統への反逆者、階級転覆者という側面も指摘できますが、しかし彼らの行いは呪いの連鎖を繰り返すだけであって、最終的には敗北します。

にもかかわらず、ニ・ミスニが吸血妖怪として「転生」するのは、彼女自身が伝統と因襲に死後も囚われ続けていることを意味しています。なぜなら胎児や嬰児の血肉を喰らう吸血妖怪こそはマレー世界における非常に伝統的な悪霊だからです。これについては、以前別媒体で記事を書いたことがあり、現在は自分のブログに転載しているので、以下必要箇所のみ引用しましょう。

シンガポール繁栄の礎を築いた英国人ラッフルズの書記を務めたマレー人のアブドゥッラーはマレー半島で信じられている悪霊や妖怪について、自伝の中で以下のように書き記しています。マラッカに宣教師として赴任していたミルン氏の奥方とのやりとりです。

彼女は一人の中国人の女性を雇っていて、彼女の服や子供たちの服を繕わせていた。ある日のこと、この中国人の女性がミルン夫人のところへやってきて言った。

「昨日、私の子供は家でプンティアナクとポロンに魅入られて死ぬところでした」

 ミルン夫人は、プンティアナクとポロンという言葉がわからなかった。中国人の女性は手振りや言葉でいろいろと説明しようとしたが、夫人は理解できない。そこで二人は、私が書きものをしている部屋にやって来て言った。

「プンティアナクやポロンというのは、どういう意味なの?」

 私は笑った。そしてミルン氏に、中国人やマレー人が信じている、愚にもつかない、役にも立たない、ありとあらゆる悪霊の名を、はっきりと説明した。それは我々の先祖の時代から受け継がれ、今日に至るまで続いているのである。私はそれらがおよそ幾つぐらいあるのか、その数をあげることも、また、その意味をはっきりさせることも出来ない。(後略)

アブドゥッラー著、中原道子訳『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』 平凡社東洋文庫 pp.108-109

プンティアナクとはポンティアナックを指し、訳注では「吸血鬼。産褥にある婦人とか子供を餌食にする悪霊」と解説されています。またポロンは使いの精で、遠隔地にいる誰かに取り憑く悪霊と言われます。この後アブドゥッラーは二十五にも及ぶ悪霊の種類や名前を挙げ、それらに対処するための悪魔祓いや魔術についても語っています。

『呪い』におけるゴッドマザーであるニ・ミスニ。彼女が吸血妖怪に「転生」するのは伝統回帰の現れでもある。imdb.com より引用。

ジャワ封建主義の犠牲者であるニ・ミスニが、呪術というもうひとつのジャワの伝統によって「復讐」を果たそうとするもその企ては失敗し、さらにまた別の伝統によって蘇る。因果は解けても呪いが終わることはなく、この不条理こそが世界の真実である。これこそがジョコ・アンワルの世界観なのではないでしょうか。

そして、横山さんのもう一つの指摘、「危険から無事逃れたものの呪われた出自を持つ主人公について、実はまだ呪いが払拭されていなかったようなことを匂わせるラストシーンのほうが怖さを増幅させられたような気」についてですが、私としては現行のままで全く問題ないという立場です。

前回指摘したように、あの最後の疾走場面は冒頭の高速道路での逃走場面の反復でありながらも、決定的に違う意味が付加されていることを観客に印象づけるシーンだからです。そして、幼女たちの霊からは解放されたマヤですが、それは故郷からの完全な放逐も意味しています。伝統から切り離されたよるべなき大都市ジャカルタで、たった一人で、亡き幼女たちの皮を被ったままで生きていくほかない、これが彼女に課せられた「罰」なのです。マヤを最終的に呪いから解放したのか、あるいは共同体から完全に追放したのか、どちらとも取れる、現在の突き放したようなラストこそが『呪い』という作品には相応しい、そのように私は思います。

以上、『呪いの地の女』についての私の作品評論はここで筆をおきたいと思います。作品にのめり込むあまり、我ながら呆れるほどの分量となってしまったことをお許しください。しかし、十数年ほど前までは、インドネシアのホラー映画というだけで批評家にも観客にも露骨に馬鹿にされ、見下され、軽蔑されていた当時の日本そしてインドネシアの一部の状況を思い出すに、『呪い』のような傑出した作品こそは全力で擁護し広く紹介すべきであると、ある種の義憤が私をここまで駆り立てました。やや大袈裟に言うならば、佐藤忠男さんがキャリア初期に論じた「任侠の精神」を私なりに実践したというところでしょうか。

『呪い』はまだ日本では映画館で上映されておらず、見る手段も限られるようですが、おどろおどろしい物語の奥にある世界観まで観客が理解してくれることを、インドネシア映画を愛好する一人として強く期待しています。

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さて、もうひとつの宿題です。ジョコ・アンワルという2000年代初頭からキャリアを歩み始めた映画作家のフィルモグラフィーにおいて、『呪い』という作品はどのような位置にあるのか、やや駆け足ではありますが、暫定的な作家論を以下論じようと思います。

実のところ、彼の全作品を私は観たわけではなく、またこれを書いている8月初旬現在、最新監督作『悪魔の奴隷2:聖体拝領』(Pengabdi Setan 2: Commnunion)が記録破りの信じ難いほどの超ヒット中であるため、あくまで現時点での暫定的な内容となることをご了承ください。今後も快進撃を続けるであろうジョコ・アンワルならば、おそらく私の予測を軽々と超える作品を発表するだろうと、そんな明るい期待を持ちながら、まずは彼の経歴を振り返ってみましょう。

(⇒ 芸術映画ではなくB級娯楽映画を観て・・・)

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