よりどりインドネシア

2022年06月09日号 vol.119

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第43信:ジョコ・アンワル作品試論(その1)~恐怖の根源を探る試み~(轟英明)

2022年06月09日 19:08 by Matsui-Glocal

横山裕一様

今年のレバラン休暇は家族と共に、妻の実家があったバンダアチェで過ごしました。6年ぶりの帰省で、県外へ遠出することはなく、妻の家族・親族・友人に再会しているうちに1週間が過ぎ去ってしまいました。幸いなことに、行きも帰りも、もちろんバンダアチェ滞在中も、コロナウィルスに罹患することはなく、全くもって平穏無事にチカランへ帰って来ることができました。アチェではジャカルタと違ってマスクをしている人はほとんど見かけず、本当にインドネシアという同じ国なのかな?と感じるほどでした。アチェにはワクチン接種を拒否する人が少なからずいると報道では聞いていましたが、社会生活は普通に営まれている様子だったのが印象的でした。ともあれ、今後新型の変異ウイルスが再び発生して、コロナ禍の時代へ逆戻りすることがないよう願いたいものです。

今回取り上げる、ガドガド・ホラー2.0の真打ち『呪いの地の女』(Perempuan Tanah Jahanam)ポスター。filmindonesia.co.id より引用。

さて、今回も横山さんへの返信から始めましょう。横山さんが前回第42信で紹介された『ベアトリスの戦争』(Beatriz's War)ですが、私は昨年オンラインで開催された東ティモール映画祭にて鑑賞しました。豪州映画人の協力を得ながら、東ティモール人が主導して制作した同国初の劇映画という触れ込みどおりのシリアスな力作でかなり見応えがありました。ネット配信元の情報などは手元にないのですが、東ティモールに1年弱滞在した私の経験を踏まえるならば、是非多くの人に見ていただきたい良質な作品であると太鼓判を押しておススメいたします。

なお、横山さんは触れていませんでしたが、この作品には原作があり、16世紀半ばのフランスで実際に起きた有名な詐欺事件、通称「マルタン・ゲール事件」を下敷きにしています。私は未見ですが、フランスでは1983年にジェラール・ドパルデューとナタリー・バイ主演『マルタン・ゲールの帰還』(Le Retour de Martin Guer)として、またアメリカでは1993年にリチャード・ギアとジョディ・フォスター主演『ジャック・サマースビー』(Sommersby)として映画化されています。後者は南北戦争終結後の南部テネシー州が舞台となっており、『ベアトリスの戦争』において、紛争と住民投票終了後に死んだと思っていた夫が帰還して巻き起こる波紋を描いた点と一部設定が重なるようです。

『ベアトリスの戦争』の一場面。ベアトリスを演ずるイリム・トレンティノとテレサを演ずるアウグスタ・ソアレス。映画公式サイトaguerradabeatriz.comより引用。

ただ、『ベアトリスの戦争』では、長期間不在の後に帰還した夫は果たして自分の知っている夫と同一人物なのか、というミステリー要素よりも、東ティモール人女性たちがインドネシア占領下においてどれだけの苦難を経験しなくてはいけなかったか、言わば民族的受難を職業俳優抜きで半ば再現ドラマとして映像化したことに重点が置かれている印象があります。言い換えれば、『ベアトリスの戦争』は外国人観客に見せることを前提として制作された「政治的に正しい」A級芸術映画であり、力作ではあることに疑いはない一方で、東ティモールを知るきっかけとしてこれから見ようと思っている人には若干の留保をつけて鑑賞してもらいたいとも感じました。以下、3点ほど、私が注意すべきと考える点を指摘しておきます。

第1に、本作では東ティモール人女性の悲しみと怒りが余すことなく描かれるのですが、喜びや楽しみは充分には描かれません。喜怒哀楽の喜と楽が欠落しているのは、本作が芸術映画というフォーマットである以上、またストーリー上からもやむを得ないことではあります。しかし、東ティモールについて未知の観客にとっては、シリアスすぎてややとっつきにくい作品であることも否定し難いのです。

第2に、本作鑑賞後の観客に「苦難の歴史を歩んだ東ティモールと可哀そうな女性たち」というイメージがそのままずっとこびりついてしまう可能性が高いことも懸念されます。たとえば、インドネシアの場合、様々なジャンルの劇映画が国内外で上映され、芸術映画も娯楽映画も、コメディもホラーもアクションも史劇も、ネット配信サービスでは同一上に並んでいる状態です。不十分とはいえ、インドネシア社会の多種多様な側面を、インドネシア人の喜怒哀楽が何に根差しているのか、外国人観客は知ることができるでしょう。しかし、国産映画を継続的に制作するほどの産業的基盤を欠き、映画の輸出競争力もない東ティモールは全く違う状況にあります。つまるところ、外国人にとっての東ティモールのイメージが『ベアトリスの戦争』一作のみで固定化されることは、長期的視野から考えて、果たして東ティモール社会とそこに住む人々を理解するうえで、本当に望ましいことなのか、疑問なしとはしません。

上記二点の指摘は、第39信で追悼した佐藤忠男さんのアジア映画紹介の方法と批評を念頭に置いてのものです。佐藤さんが主張された「映画とは自惚れ鏡である」との説を当てはめるならば、本作は非常に自己に厳しい形での自惚れ鏡と言えます。民族独立の大義に反し、優しい夫を騙る男は断罪されなければいけない。紛争の過程において東ティモール人女性が払った犠牲の大きさを考えれば、映画の結末は論理的にも倫理的にも肯定されるべきですが、一方で加害者であるインドネシア人たちは結果として免罪されてしまっているようにも見えます。それは本作が現実と地続きの作品であり、また加害者の責任追及は本作のメインテーマではない、と反論されればそれまでなのですが、なにか割り切れない想いが残ることも確かです。

第3に、2点目とは矛盾する内容かもしれないのですが、実際の住民たちの暮らしぶりや女性たちが経験した苦難は、映画内の描写など比較にならない、より過酷なものだったという指摘です。実はこの感想は、独立派ゲリラ従軍取材経験のある日本人記者の方が昨年の映画上映後のオンライン・ディスカッションにて述べられたものです。劇映画である以上、徹底的なリアリズムよりも作劇方法や設定、さらには予算を優先することは当然と言えば当然です。ですから記者の方もこの映画の出来を貶めるためにそのような発言をしたわけでは全くないのですが、オンラインでこの発言を直接聴いた私は、たかが映画を少々見たくらいで東ティモールを分かった気になってはいけないと、深く自戒しました。冷や水を浴びせられた気分とはあれを指して言うのでしょう。

以上、我ながらお節介と思いつつ、『ベアトリスの戦争』を鑑賞する際に注意すべきと思われる点を3つ挙げてみました。これらはいずれも作品そのものの瑕疵ではなく、作品を取り巻く環境の問題ではあるのですが、自国のイメージを海外メディアや外国資本制作の映画でしか世界に広く伝えられない、東ティモールのような小国に共通する問題であると私は認識しています。ここで佐藤忠男さんの批評を再び援用するならば、映画で世界を公平に愛するためには作品を取り巻く環境とその国際的な流通の不均衡まで見据えて論ずるべきであり、さらにそうした国際的な流通に乗りにくいローカルな娯楽映画こそを批評は積極的に取り上げ紹介すべきではないか、そのように私は考えています。

随分大上段に構えてしまいましたが、『ベアトリスの戦争』のようなシリアスで重い芸術映画だけでなく、いずれは東ティモール製の明るくて軽い娯楽映画が海外にいても気楽に楽しめる、そんな時代が来ることを期待したいものです。

なお、以下のサイトで上智大学の福武慎太郎さんが本作について簡潔に紹介解説されています。未見の方には参考にしていただければと思います。

ベアトリスの戦争 映画解説 - 上智大学アジア文化研究所 福武慎太郎 https://www.youtube.com/watch?v=P7_xGCw9thY

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前回第42信への返信はここまでとしますが、本題に入る前にもうひとつ別の話題も振らせてください。6月上旬現在、歴代観客動員数を更新中のホラー映画『踊り子の村での奉仕活動』(KKN di Desa Penari、以下『KKN』と記す)についてです。横山さんはすでに鑑賞されたそうで、私も10日ほど前に家族と一緒に観たのですが、うーん、歴代観客動員記録を塗り替えるほどの優れた作品かなあという疑問がぬぐえませんでした。

(⇒作品そのものの力というよりは、・・・)

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