よりどりインドネシア

2022年06月09日号 vol.119

いんどねしあ風土記(36):「ジャワのポンペイ」古代遺跡が現代に伝えるメッセージ ~中ジャワ州トゥマングン~(横山裕一)

2022年06月09日 19:08 by Matsui-Glocal

かつて突如として消えた古マタラム王国のある街が、千年ぶりに現代に姿を現した。2008年に中ジャワ州で発見された古代遺跡「リヤガン遺跡」(Situs Liyangan)である。千年前、シンドロ山の噴火による大量の火山灰で覆われたこの遺跡は、インドネシアで他に例を見ないほど古代の街の様子を現代人に伝えていて、イタリアにある古代ローマ帝国の都市が火山噴火で埋もれた有名なポンペイと似た様相を呈している。まさに「ジャワのポンペイ」ともいえる古代遺跡の謎、そして現代の人々に発信されたメッセージに迫る。

●古代千年間を物語るリヤガン遺跡

シンドロ山麓にあるリヤガン集落の入口(中ジャワ州トゥマングン)

リヤガン遺跡は中ジャワ州トゥマングン県プルボサリ村のリヤガン集落にある。標高3,153メートルのシンドロ山山頂から約8キロメートル北東に広がる広大な山麓に位置し、標高1,200メートルを超える高原地帯である。リヤガン集落一帯は名産品であるタバコ畑などの農耕地だが、それとともに建築に適した火山灰が堆積することから、2000年代前半からは土砂採取場にもなっていた。

遺跡が発見されたのは2008年、土砂採取の作業員が杭を打ち込んだところ石に当たり、そこから石垣の様なものが見つかった。これを受けてジョグジャカルタ特別州考古学研究所が2009年から本格的な発掘調査に入った。しかし、発掘とはいえ遺跡の大部分が4メートルから最大で14メートルもの火山灰が堆積していたため、作業は手掘りの土砂採掘と並行しながらの手間と時間を要す、極めて困難なものだった。10年余りの発掘調査の結果、驚くことに3ヘクタールもの広大な土地に大規模で明瞭な街が姿を現した。通常、寺院や住居など単独の遺跡は見つかるが、街全体が残る遺跡は初めてのことだという。

写真手前がリヤガン遺跡の一部。発掘前は奥の崖の上が地表面の高さだった。

手掘りの土砂採集作業。鉄棒を刺して削る。遺跡発掘時は同様の手法が採られた。

街の遺跡は大きく分けて、崇拝するための地区、居住区、農耕地の3つに分かれている。また遺物からの炭素年代測定によると、遺跡は2世紀から11世紀半ばにかけての古代集落跡だということが明らかになった。ジャワ島中部から東部にかけて最初の大規模な王国とされる古マタラム王国が興きたのが8世紀初めであり、リヤガン遺跡は古マタラム王国時代だけでなく、それ以前の自然崇拝の巨石文明の時代を含めた約千年間の歴史を網羅した貴重な遺跡であることが明らかになった。日本で言えば、卑弥呼がいたとされる時代から大和朝廷、奈良時代を経て平安時代の後期にかけての時代に相当する。

リヤガン遺跡遠景。奥はシンドロ山。

リヤガン遺跡全景。写真右下から左上に崇拝地区としての階段状のテラスが4段連なる。テラス左側には農耕地跡、写真左上に住居址がある。上掲の写真は右下から左上に向けて撮影。(引用:“Situs Liyangan dan Sejarahnya  Peradaban Adiluhung di Lereng Gunung”, Sugeng Riyanto, 2020)

リヤガン遺跡で他に類を見ない形態を有しているのが、ヒンドゥー教寺院が配された崇拝地区である。最大の特徴は4段の階段状に連なったテラスで構成されていることで、通常ヒンドゥー教寺院にはない構造だ。4つのテラスは全長約百メートルと大規模である。以下、調査結果から4つのテラスの構成と役割を詳述する。

(1) 礼拝の準備のためのテラス最下段と2段目

最下段からは炭化した稲が大量に出土したことから稲の倉庫があったとみられ、その脇には礼拝の前に体を水で清めるためのヒンドゥー教様式の水場が見つかっている。テラス2段目からは寺院の建物の土台が見つかっていて、確定はしていないものの、死者を火葬した灰を収めた場所である可能性も示唆されている。最下段と2段目の区別はつきにくいが、低い石垣で区分されている。

最下段テラスと2段目テラス(写真上)。青シート部分が稲倉庫跡で、塔が水場(写真下)。

(2) 礼拝控え所としての3段目テラス

3段目テラスからは2段目までとは大きく異なり、精緻に組まれた石組の階段、石塀などが整備されていて、神聖さが増した区域であることを窺わせる。実質的にここからが寺院内部であるかのようにも見える。石階段を登るとテラスには約5メートル四方の石組みの台座がある。12の柱穴が穿たれていることから礼拝前の控え所としての建物が設けられたとみられている。3段目テラスで順番を待ち、礼拝のため4段目テラスへと向かう段取りである。また、石組の石が黒いのは火砕流にあった際焦げた跡、赤いのは熱で化学変化した跡だという。

3段目テラスへ通じる精緻な石階段と石塀。黒や赤い色は火砕流跡を物語る。

3段目テラスにある、待合所だったと見られる建物の基礎部分の石組。

3段目と4段目テラスの境界中間には石階段が2カ所あり、中央の階段から登り、礼拝を済ませた人が左端の階段から降りたのではないかと推測されている。このテラス境界の石垣には排水用の穴が2箇所あり、第4テラスの雨水を流せる様になっていて、第4テラスがいかに大事に扱われていたかを窺わせる。

第3・第4テラス間にある2ヵ所の階段(写真上)とその中間部にある排水溝(写真下)

(3) 礼拝のための聖域、4段目テラス

第4テラスは25メートル四方と4つのテラスの中で最も広い。石階段を登ると右に約10メートル四方の大きな建物の基礎とみられる石組が、また左側にはヒンドゥー教の寺となる基礎部分が5基、整然と奥に向かって並んでいる。5基の寺は発掘当時、それぞれ柱や壁、屋根などに使われたとみられる炭化した木材や竹、ヤシ葉の軸が確認されていて、石組の基礎部分の上には木造の寺があったと考えられている。5基の寺のうち最も階段に近い寺には石階段が配されていて、さらに石組の基礎の上に「ヨニ」と呼ばれる石造物が遺されている。「ヨニ」とはヒンドゥー教の崇拝対象物として女性器を模したもので、男性器を模した「リンガ」と通常一組になっている。

ヒンドゥー教寺院が5基並ぶ第4テラス。左上が直径1メートルの柱の建物跡。

5基のうち最も大きな寺院。上部にある箱状の石像物が「ヨニ」。

第4テラスで驚くべきことは、5基の寺の反対側にある建物の基礎とみられる石組で、直径約1メートルの柱の礎石が4つ見つかっている。直径1メートルもの柱を有した巨大な建物の存在は当時の建築技術の高さとともに、重要な建物であったことを裏付けている。ヒンドゥー教の宗教関係者が控え、礼拝者はここで謁見を済ませてから5基の寺を廻って礼拝したものと考えられている。

以上がヒンドゥー教寺院のある4段のテラスからなる崇拝地区であるが、4段のテラスからなるヒンドゥー教寺院は他に例を見ない。実はこのテラスは本来、ジャワ固有の自然崇拝などの古代信仰のために造られた可能性が高い。西ジャワ州チアンジュールにある1世紀ごろに造られたとみられる古代信仰のためのグヌンパダン遺跡も同様にテラスが階段状に連なった形態である。リヤガン遺跡の4つのテラスは北東から南西に向かって連なっていて、南西の先にはシンドロ山が聳えている。日本的に言えば、霊峰に向けられた祭壇はあたかも自然崇拝の面影を残す。リヤガン遺跡自体が2世紀から11世紀のものと年代測定されており、当地にヒンドゥー教が伝播したのは6世紀以降とされている。このため、最初は古代信仰の崇拝場所として設けられた階段状のテラスだが、その後ヒンドゥー教伝播に伴ってそこに寺院を設けてヒンドゥー教施設に切り替えられていったものとみられている。

テラスが古代信仰からヒンドゥー教寺院へと再構成された痕跡として、テラスの段を強化する石垣が挙げられる。石垣はヒンドゥー教寺院の基礎の石組と同じく、精緻にレンガ状に切り出した直方体の石で組まれているが、その内側から拳大の川石で組まれた石垣が見つかっている。これは古代信仰のため最初にテラスが造られた当時の石垣で、古代信仰からヒンドゥー教寺院に切り替わる際に新たな技術でリフォームされていたことが分かる。

第3テラス手前の石垣。レンガ状の石組による石塀の内側で見つかった旧石塀の表面。

こうしたことからも、リヤガン遺跡は古代信仰からヒンドゥー教信仰への変遷を窺わせる貴重な資料であるともいえる。信仰の変遷や聖地の再利用という興味深い事実が明らかになったとともに、規模からみてもこの地が約千年間、地域の信仰の中心地であったことを裏付けてもいる。

●古代人の営み ~ 高い技術、そして集落終焉へ

シンドロ山に向けて縦一列に延びる4段のテラスの左隣には、幅数メートルの道路が整備されている。特に第3テラスから最下段のテラスにかけては石畳になっていて、今見ても美しく印象深い。当時の目抜き通りであるとともに聖地と農耕地とを明確に区分する役目があったものと窺える。寺院のあるテラス側には立派な石塀が整備され、道路反対側沿いには小さな柱穴が見つかっていることから竹柵が道路に沿って設けられていたとみられる。炭化した竹柵も道路脇から出土している。塀の石組はまるでパズルのように精緻に組まれた複雑な造りで、当時の造営技術の高さを表している。石塀と竹柵に囲まれた石畳の道は整然としていて、当時リヤガンが文明の高い古代都市だったことを思わせる。

石畳の道路

ヒンドゥー寺院と石畳道路を隔てる立派な石塀。

非常に精緻な造り。

石畳の道路を隔ててテラスの反対側には農地跡が広がっている。一部には畑の畝の跡や石を並べた灌漑の跡も見つかっていて、現在と同様の農耕技術がすでにあったことを裏付けている。こうした農耕技術やテラスの最下段から見つかった大量の稲の貯蔵遺物から、この地域では当時多くの収穫量をあげていたことが推測できる。

さらに農業用水のポイントとなる部分には、ヒンドゥー教による「ヨニ」と呼ばれる石造物が配置されているのが複数箇所から見つかってもいる。前述のように「リンガ」と合わせて男女を象徴するもので、豊富なシンドロ山からの水の供給と豊作を願って設置され、祀られていたと考えられている。

出土した畑の「畝」の跡(写真上)と畑から出土した「ヨニ」(写真下)。(写真左引用:Liyangan Kini, Doeloe, dan Esok”, Sugeng Riyanto, 2018)

「ヨニ」での儀式を行う際、ヒンドゥー教に基づいて「ヨニ」の溝に牛乳を流して祀ったといわれている。豊富な水源を供給するシンドロ(Sindoro)山はサンスクリット語で「美しい」という意味があるとされているが、シンドロ山周辺では各地にそれぞれ伝説とともに山の名前や成り立ちの由来が数多くある。現在のリヤガン集落では、シンドロ山はジャワ語で「スス・ネ・ドロ」(Susu ne doro)から由来していると信じられている。直訳すると「最も高い所(者)からの乳」で、「最も高い所(者)」とは王や神を指す。肥沃な土地や豊富な水を配給する山は古代信仰では神としての信仰対象でもあり、ヒンドゥー教でも神の居場所と見做される。まさにこの地ではシンドロ山は「神からの恵み」という意味で名付けられたものと考えられる。

タバコ畑とシンドロ山

一方、聖地であるテラスの最高部の先には住居址群が見つかっている。炭化しているものの、きれいに木組みされた窓枠や扉、床板、竹で編んだ壁などが確認されている。まるで現在の家屋と同様の造りを思わせる。黒く焦げた家屋用木材の姿を見ると、千年前の11世紀半ば、シンドロ山の大噴火に伴う火砕流で家屋が瞬時に焼け、火山灰に埋もれていった様子が生々しく想像できる。2世紀から11世紀半ばにかけて約千年間栄えた街が火砕流に飲み込まれ、一瞬のうちに地中深くに消滅してしまう様は、自然現象とはいえなんとドラスティックなものだっただろう。リヤガン遺跡は火山噴火という自然災害の脅威を記憶に留める古代遺跡でもあったのである。

住居址で見つかった家屋に使われた炭化した木材。左下に窓枠が確認できる。(引用:Situs Liyangan dan Kita, Sugeng Riyanto, 2019)

(以下に続く)

  • 古代人からのメッセージ
  • 古代石碑文からみたリヤガン遺跡
  • 現代に生きるリヤガンの人々と遺跡
  • リヤガン遺跡の管理小屋にて
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