よりどりインドネシア

2022年03月23日号 vol.114

闘う女性作家たち(5)― ジギー・ゼジャゼオフィエンナザブリズキー ―(太田りべか)

2022年03月23日 01:01 by Matsui-Glocal

Ziggy Zezsyazeoviennazabrizkie。長い名前だ。コピペなしでは正確に書けそうにない。本名だという。四人姉妹の三女で、四人とも最初の名前はZiggyらしい。

インドネシアには多くの民族が暮らしているが、そのうち最多といわれるジャワ人をはじめ、特殊な家系を除いて一般的に苗字を持たない民族も少なくないようだ。近ごろは二つ以上の名前を持つ人が大半だと思われるけれど、どれもその人個人の名前であることが多い。

つまり、親は自分の名と無関係な名を自由に子につけることができる。自分の子にナポレオン・ボナパルトという名をつけたってかまわない。ディー・レスタリ(Dee Lestari)の小説『スーパーノヴァ』シリーズの第3巻には、ナポレオン・ボナパルトという名前の友人の話が出てくるし(実際にバンドゥンにそういう名の方が実在しているという話を聞いたことがある。そして、松井和久さんにご教示いただいたのだが、元国家警察高官で、収賄・逃亡幇助で現在勾留中の同名の人物がいるそうだ。年齢からして同一人物かもしれない)、同第5巻には、アルベルト・アインシュタイン、サー・アイザック・ニュートン(「サー」も名前の一部だ)、トーマス・アルファ(本家はAlvaだが、誤ってインドネシア風発音のAlfaにしてしまった)・エジソンという名前のバタック人三兄弟が登場する。自然科学を熱烈に信奉する父親が、偉大な科学者たちにあやかってつけた名前だ。

Ziggy Zezsyazeoviennazabrizkieの後半も、苗字ではない。三人の姉妹にも、やはりこういう長い名前が付いているらしい。とても暗記できそうにないけれど、一度目にしたら忘れられない名前だ。子どものころに、学校のテストの答案用紙に名前を書き込むときなどにさぞ苦労したのではないかと想像してしまうが、本人談によると、省略して書いていたから存外そうでもなかったらしい。いつも名前を珍しがられ、由来などをあれこれ訊かれるので、その手の質問や説明にはうんざりしていると語っていた。その気持ちは、ちょっぴりわかる。

●略歴

1993年、スマトラ島ランプン州バンダル・ランプン生まれ。パジャジャラン大学法学部卒業。2010年から現在まで、30冊を超える作品を出版している。

“Di Tanah Lada”(『胡椒の地で』)が2015年にジャカルタ芸術院の小説コンテストで第二席に、“Semua Ikan di Langit”(『空の魚みんな』)が2016年に同コンテストで第一席に選ばれた。

絵本や童話など子どものための本や、児童虐待など子どもを巡る問題に深い関心を寄せている。2021年9月に実施された国際交流基金アジアセンター主催の「“読む”プロジェクト」にも参加し、児童虐待をテーマにした短編を寄稿している(https://jfac.jp/culture/features/f-yomu-indonesia-ziggy-zezsyazeoviennazabrizkie/)。

趣味で絵を描き、自作の小説のイラストを担当している場合もある。

ジギー・ゼジャゼオフィエンナザブリズキー。(https://www.gramedia.com/best-seller/kisah-kisah-di-balik-nama-ziggy-zezsyazeoviennazabrizkie/ より)

●衝撃の児童文学『胡椒の地で』

まだ20代にして多作な作家だが、ここでは読者からの反響も大きい「児童文学」作品2冊を取り上げたい。「児童文学」と書いたけれど、ほんとうに児童文学という範疇に入れていいのかどうか、迷うところだ。子どもを主人公にして、子どもの視点から書いた大人のための小説、といったほうが適切かもしれない。少なくともインドネシアでは、「子どもの本」のカテゴリーには入れられていないようだ。内容が強烈で、恐ろしい物語だからだろうか。

でも、やはり「児童文学」と称しておきたいと思う。これらの小説は、ぜひ子どもたちにも読んでほしいと思うからだ。子ども向けに書かれた、道徳と慈愛と教訓に満ちた物語より、こういった物語のほうが子どもの心に強い印象を残すはずだ。この2冊のような作品がインドネシアの児童文学の世界に登場してきたことは、実に画期的な出来事だといえるのではないだろうか。これらの物語に子どもたちは共感し、夢中になるだろう。内容が子どもにはむずかしすぎる? 子どもを甘く見てはいけない。

“Di Tanah Lada”(『胡椒の地で』)は、小学校1年生ぐらいの女の子アファの視点から語られる。アファはママとパパと三人で暮らしている。パパはいつもアファを見ると顔をしかめる。なにかというと怒鳴りつけたり、叩いたりする。パパは妖怪や怪物のように恐ろしい存在だ。ほんとうは、パパはアファのことをサリファ(Saliva:唾液)と名付けようとした。届出を出すときに、ママがこっそりサルファ(Salva)に書き換えた。今はみんなからアファと呼ばれている。

アファは3歳のときにパパのパパであるキアじいちゃんから辞書をもらった。それからいつも辞書を持ち歩いて、わからない言葉に出会うと、すぐに意味を調べている。じいちゃんに言われたことを守って、いつも「正しい」インドネシア語を話す。学校の成績もいい。友だちもたくさんいるし、学校は大好きだ。なによりも、そこにはパパがいないから。

そんなある日、キアじいちゃんが死んで、パパは遺産をもらってお金持ちになった。パパは大喜びで勝手に家を売り払い、無理やりママとアファを連れて、賭博場のある裏ぶれた地区の裏ぶれた「ネロ団地」に移り住む。毎日賭博をして暮らすためだ。

ネロ団地でアファは、いつもギターを持ち歩いているPという男の子と出会う。名前はただのP。Pのママはずいぶん前にいなくなり、パパとふたりで暮らしている。パパはいつもPにひどい仕打ちをするので、パパが家にいる間、Pは外にいる。夕方パパがいなくなってから家に帰って、食卓の下に置いた冷蔵庫の空き段ボールの中で眠る。出て行く前にママが置いていってくれた本 “Le Petit Prince”はPの宝物だ。学校には行ったことがない。

パパが無理やりママを賭博場に連れて行ってしまった。部屋には鍵がかかっていて、アファは中に入れない。そこでPが管理人さんのところに連れて行ってくれて、鍵を開けてもらうことができた。ネロ団地の部屋には寝室がひとつしかないので、アファには寝るところがない。マットレスを買ってくれると言っていたママは、パパに連れて行かれてしまった。Pの提案で、まだ服が入ったままになっているスーツケースを開いて、その上で眠ることにした。帰ってきてスーツケースで寝ているアファを見たパパは激昂し、力ずくでスーツケースを閉じてアファを閉じ込めようとした。ママは必死に阻止しようとする。騒ぎを聞きつけて団地の人々が集まり、大騒動になった。

ママはアファを連れてネロ団地を出て、ホテルに移った。これまでさんざん我慢してきたけれど、とうとうパパと離婚して、とりあえず弟のアリおじさんの家に世話になることに決めた。パパがいなくなるのは嬉しいけれど、ネロ団地を離れたらPと会えなくなってしまう。アファはママが寝ているうちにホテルを抜け出し、ネロ団地に戻った。

アファとPが段ボールの中で話をしていると、Pのパパが帰ってきた。Pの顔が恐怖で固まる。パパが段ボールを蹴飛ばし、Pを引きずり出そうとするので、Pはアファにじっと隠れているようにささやいて、外に出て行く。椅子や机がぶつかり合い、倒れる音が聞こえる。男の唸り声も聞こえるけれど、Pは声を立てない。アファは大切なペンギンのぬいぐるみを抱きしめて段ボールの中で身をすくめている。

やがてPの悲鳴が響いた。アファはとっさにPのギターをつかんで飛び出し、悲鳴を上げながらPのパパの顔にギターを振り下ろした。パパがPから手を離した隙に、アファはPの手を引いて部屋から逃げ出し、同じ団地に住むスリ姉さんの部屋に逃げ込んだ。Pの腕は、アイロンを押し当てられて焼け爛れていた。仰天したスリ姉さんは、すぐにふたりを病院に連れて行ってくれた。

ときどきネロ団地にやって来てPにギターや歌を教えてくれるアルリ兄さんも病院に駆けつけた。治療を終えたPとアファはもう家には戻らないことに決め、スリ姉さんとアルリ兄さんが口論している隙に病院を抜け出した。ふたりはアファのママのママ、イスマばあちゃんのところに行くことに決める。海が近くて、鶏もいる小さな家に、イスマばあちゃんはひとりで住んでいる。そこに行くには船に乗らねばならない。

その夜は親切なサテ売りのおじさんとおばさんの家に泊めてもらえたけれど、どうやら家出をした子どもらのようだから、翌朝警察に連れて行こうとおじさんたちが話しているのを聞いて、アファとPは早朝まだ皆が寝ているうちに抜け出し、港へ行く電車の出る駅に向かった。電車を待っている間に、アルリ兄さんがふたりを探しに来てくれた。そして車でイスマばあちゃんの家まで連れて行ってくれることになった。

フェリーで海を渡って車で長い間走り、翌日にはイスマばあちゃんの家に着くというところまでたどり着いて、三人は海辺の宿屋に泊まった。そこでPは、アルリ兄さんから思いがけないことを聞かされる。

深く混乱した心を抱えて桟橋に座り込むP。Pのことが気がかりで、ベッドを抜け出してPのもとへ行くアファ。嫌な予感に包まれつつも、いや、いくらなんでもそんなことはないだろう、ハッピーエンドとまではいかなくても、それなりの落ち着きどころに落ち着くはずだ、そうあってほしい、と祈るような気持ちで読み進めるが、予感は当たってしまい、衝撃のラストを迎える。

衝撃的ではあるけれど、とても納得のいくラストでもある。2015年にこの作品の初版が出たとき、ラストはそれなりのハッピーエンドだったらしい。でも著者自身がどうしても納得できず、2021年に第2版が出る際に、ラストを現在のものに書き換えたという。

衝撃的ではあるけれど、悲痛ではない。ふたりは絶望したわけではないからだ。星たちのもとへ帰っていくだけだ。いつか生まれてくるときに、卵と鶏になっても、靴と象になっても、ミミズと鼻くそになっても、男の子とそのパパになっても、いつもいっしょで、慈しみ合う。たとえこの世界にはいいパパなんていなくても。

なにより恐ろしいのは、この「悲痛ではない」ということなのかもしれない。大人にひどいことを言われ、ひどい仕打ちを受けて、怯え竦んで憤っていても、ふたりはどこか冷静だ。なぜなら、それがふたりにとっては日常だからだ。そう思うと、心底ゾッとする。

もしも大人の視点から書いたとしたら、第三者の、あるいは「神の視点」から書いたとしたら、もっと悲惨な物語になったかもしれない。けれども、それではこの滲み出るような恐ろしさは表現できなかったのではないだろうか。こんなふうに子どもを描き出した作家が、これまでインドネシアに幾人いただろう?

“Di Tanah Lada”

(以下に続く)

  • 戦慄の児童文学『いこう、いますぐ』
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