よりどりインドネシア

2022年03月08日号 vol.113

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第37信:プロパガンダ映画と娯楽映画のあいだ、或いはガドガド・ホラー1.0 と2.0の断絶(轟英明)

2022年03月08日 23:31 by Matsui-Glocal

横山裕一様

コロナ禍が始まって2年、遂にと言うべきか、先日私もオミクロン株に感染してしまいました。スラバヤ出張時の満席状態の飛行機内で感染した疑いが濃厚で、あれほどのぎゅうぎゅう詰めでは感染しないほうがおかしかったと今にして思います。横山さんのご友人は家族全員感染でかなり大変だったようですが、私のほうは、症状が出て陽性も確認されたのは幸い家族内で私だけでした。喉の痛みで数日間苦しかったものの、この原稿を書いている時点では体調はすっかり回復しています。ただ、いまだPCR検査では陰性判定とならないため、自宅の一部屋で隔離中です。

ああ、散歩がしたい・・・と悶々としていたら、ロシアがウクライナに全面侵攻したニュースが入ってきたではありませんか。21世紀になってこれほどあからさまな侵略行為、国家間戦争が現実に起きるなど、私だけでなく多くの人が全く予想していなかっただけに文字通りの驚天動地です。一体これから世界はどうなっていくのか、不安でたまらず、また部屋に籠っているしかないこともあり、ネットで流れてくるニュースに釘付けの毎日を過ごしています。

私はロシアやウクライナという地域について非常に疎く、知らないことのほうが遥かに多いのですが、しかし地図を見て思い出しました。ウクライナとは、旧ソ連の天才セルゲイ・エイゼンシュテイン監督がモンタージュ理論を確立させたことで有名な無声映画『戦艦ポチョムキン』( Броненосец «Потёмкин» ) の舞台でもあったのです。そう、帝政ロシア軍による民間人虐殺行為を、それまでの無声映画とは比較にならない緻密なカット繋ぎで描いた「オデッサの階段」場面は、本作の後半に出てくるのでした。同場面は1987年のアメリカ映画『アンタッチャブル』(The Untouchables)で引用されたことがもっとも有名ですが、実は1970~80年代に活躍したインドネシア人監督シュマンジャヤも自作『無神論者』(Atheis)の中で同じ場面を引用しています。幸いオリジナルの『戦艦ポチョムキン』は1925年の制作公開で著作権が切れているためかYouTubeで視聴可能だったので、ほぼ四半世紀ぶりに見直してみたのですが、約100年前の白黒無声映画であるにもかかわらず、インパクトのある映像の連続で古典の力と素晴らしさを再確認しました。

https://youtu.be/AyBaMzBjr0c 戦艦ポチョムキン(日本語字幕+活弁字幕)。映画史上、最も有名な6分間「オデッサの階段」場面。虐殺の中を転がり落ちていく乳母車。

 https://youtu.be/kzpOtio0WCA Atheis (Sjuman Djaya, 1974)。「オデッサの階段」場面をパクったシュマンジャヤ監督はスカルノ時代のソ連留学経験者。なお、この映画で虐殺をおこなうのはインドネシア占領中の大日本帝国軍。

もっとも「オデッサの階段」、すなわち虐殺行為は史実としては存在しなかったようで、その意味でも本作はバリバリの共産主義プロパガンダ映画に他ならないのですが、100年経った現在においても十分に観客の感情を刺激する作品でありつづけています。これは本当に凄いことで、今観ても文句なく面白いのです。プロパガンダ映画の最高峰の一つでしょう。

しかし、映画内の「オデッサの階段」場面は作りものであっても、現下のウクライナにおける戦争はまごうことなき現実であり、この著しい落差を自分の中でどのように統合すればいいのか、考えこんでしまいました。『戦艦ポチョムキン』で描かれた非人道的な帝政ロシアは、たしかに共産主義革命によって打倒されましたが、それを制作したソ連は自国民を巨大な収容所に閉じ込める教条主義の国として、つい30年前まで存在していました。そして今、プーチンのロシアが、全く道理のない戦争を、民間人殺害を、ウクライナにおいて現在進行形でおこなっています。激しい怒りが沸き上がると同時に、「オデッサの階段」がウクライナの地で繰り返されているという現実に呆然とした気持ちを抱かざるをえません。100年経っても人間はどうしてこうも愚かなのか・・・。

冒頭からずいぶん大上段に構えてしまいましたが、映画に何ができるのか、或いは何ができないのか、ウクライナ情勢を追いながら引き続き考えていきたいと思います。

**********

ところで、インドネシア製プロパガンダ映画については前回第36信で横山さんが考察しました。『戦艦ポチョムキン』というプロパガンダのお手本と言ってもいい作品に言及したばかりでもあり、またインドネシア製怪奇映画、私が呼ぶところの「ガドガド・ホラー」とも関係のあるテーマですので、本題に入る前に横山さんの見解にいくつかコメントさせてください。

まず、横山さんはプロパガンダ映画を「その名の通り宣伝のために制作される映画で、為政者、政権による存在や政策などの正当化、また政治家など個人の売名、選挙戦略のイメージ向上などを目的に制作されるもの」と定義されています。これは、やや狭義の定義とも言うべきもので、プロパガンダの原義は「宣伝」というだけであって、必ずしも政治性を伴う必要性はありません。我々がインターネット上やテレビで日々見る映像広告はもちろんのこと、一見プロパガンダから程遠いと思われているハリウッド商業大作も米国の価値観を強く反映した一種のプロパガンダと言うべきでしょう。あらゆる映画は宣伝、即ちプロパガンダであるという認識なくして、作品を冷静に分析することはできません。極論と思われることは承知のうえで、次のように私は断言します。

映画には二種類しかない。即ち、楽しいプロパガンダか、或いはつまらないプロパガンダか。

そのうえでなお、政治性の強いものと、そうでないものを分けて論評することはたしかに必要でしょう。ナチスドイツや大日本帝国を例に出すまでもなく、政治的プロパガンダを観客が何の批判的視座も持たずにただ受容した結果が何をもたらしたか、我々は近現代史を通じてよく知っているからです。

横山さんが近年の政治的プロパガンダ映画を観て「スッキリしない」との感想を抱いたのは、その宣伝臭の強さが気になったことが理由の一つと思われますが、私としてはより踏み込んで、「楽しいプロパガンダ」と「つまらないプロパガンダ」をもっと明確に分けて評論すべきではないかと考えます。ここで重要なのは、その映画が一体どのような観客を想定して作られているかという点です。我々日本人にとっては「モヤモヤするだけのつまらない政治的プロパガンダ」と思われる作品が、なぜインドネシア人には「面白い」と感じられ、百万人を超える観客動員を記録するほどヒットするのか。そもそもプロパガンダ作品と娯楽作品の間に明確な違いはあるのか。こうした視点を欠いたままでは、プロパガンダ映画の奥深さと危険性には到達できないと考えます。以下、横山さんが取り上げた個別の作品につき、私が見たことのある作品を中心に注釈を入れます。

『インドネシア共産党9月30日運動の裏切り』(Pengkhianatan G-30-S PKI)は、スハルト政権が全面的に制作をバックアップしたプロパガンダ映画であり、真実の歴史であるかのように見せかけたドキュメンタリー式の再現ドラマですが、実はインドネシア映画史上最長にして最恐の怪奇映画でもあります。四方田犬彦さんによる怪奇映画に関する先駆的著書『怪奇映画天国アジア』七五頁から七六頁より、この映画に関する部分を以下引用します。「それ」や「このフィルム」は『インドネシア共産党9月30日運動の裏切り』を指します。

その時期(引用者註;八十年代から九十年代)に子供時代を送った一般のインドネシア人は、平均して何回もそれを観た体験を共有しているはずである。現にわたしが会った音楽家は小学生のときにこのフィルムを観て、婦人共産党員が狂喜して歌っている場面に深い恐怖を感じたと語った。スハルト政権が国民を無意識的に統制するために、このフィルムは決定的な役割をはたしたといえる。ちなみに政権崩壊後、情報相はこのフィルムを歴史的虚偽と判断し、上映を見合わせるよう諸方面に通達した。

ここで思い出されるのは、またしてもゴダールの言葉である。彼は、『映画史』のなかでこう語っている。

真の妖怪的映画というのはむしろ、われわれに恐怖感を与えず、あとでわれわれを妖怪めいたものにする映画だと言えます。それに対し、われわれにいくらかの恐怖感を与えるそのほかの映画は、われわれはいくらか解放してくれるのです。

『九月三十日』が制作された一九八二年が、スザンナ旋風が吹き荒れていた年でもあることの意味を、ここで考えてみなければならない。現実に恐怖政治が実現され、秘密警察に怯える人々が不信と沈黙のうちに生きることを強いられていた時代に、スクリーンにおいても恐怖が主調音となり、死者の怨恨が幽霊という形をとって権力者や同調者に復讐をはたすという物語に、多くの観客が熱狂していたという事実を、われわれは考えなければならない。このフィルムはそれを観ることを強いられたすべてのインドネシア人を「妖怪めいたものにする」にあたって、大いに力があった。第四章で言及することになるが、二〇〇六年に撮られた『赤いランタン』という怪奇映画にまで、共産党をめぐる恐怖の記憶は綿々と続いているのである。

 『インドネシア共産党9月30日運動の裏切り』チラシ。filmindonesia.or.id より引用。

本作の影響力の大きさは、単に過去の一時期において強制的に国民に見せたことに起因しているだけではなく、共産党による(とされる)残虐行為をドキュメンタリー式のドラマの中で観客に見せて脳裡に焼き付けたこと、しかも今なお「共産党は残虐である」とのイメージで観客を呪縛しているところにあるといえます。最大の政治的プロパガンダ映画であると同時に最恐の怪奇映画でもある本作をどのように乗り越えるか、これこそスハルト政権崩壊後、改革時代のインドネシア映画人の課題であり挑戦でしたが、残念ながら政治面における反共主義が根強い現状では、本作の歴史観と描写に真っ向から挑戦する形での劇映画はいまだ制作されておらず、本作の呪縛を解くには至っていないようです。

横山さんが挙げた他の作品についても言及しておきましょう。

『ハビビとアイヌン』(Habibie & Ainun)シリーズは1作目から3作目まで全て観ましたが、私は政治的プロパガンダ映画とは全く感じませんでした。日本語版も出ている原作は小説ではなく回想録であり、なるほど政治的な自己弁護が皆無ではないものの、基本線は夫婦愛を高らかに謳う内容であり、そこに自身の立身出世とナショナリズムを巧妙にふりかけたものです。ちなみに、日本語版の解説は実際にハビビ元大統領と近い関係にあったインドネシア研究者にして現在は熊本県立大学理事長を務めている白石隆氏が書かれています。

『ハビビとアイヌン』シリーズを政治的プロパガンダの所為と私が判断しなかったのは、物語が夫婦愛に焦点を当てているだけでなく、当のハビビ本人が政界を完全に引退し、テレビなどでご意見番的に自分の意見を述べることはあっても、政界に影響力を行使する実質的な権力を持っていなかったことも関係しています。ハビビ大統領が国会で信任されなかった現場を取材していた横山さんが『ハビビとアイヌン』シリーズの大ヒットにもやもやした想いを抱くのはもっともですが、これは内容面だけでなく、『ハビビとアイヌン』第一作が公開された頃の政治状況も関係しています。ハビビが不信任を受けた後にスパッと政界から足を洗い、完全に一人の民間人に戻ったのと比べ、当時彼のライバルで民主化の旗手と見られていた政治家たち、グス・ドゥルやメガワティやアミン・ライスらは国民が期待したほどの成果を挙げられず、むしろ大いに失望させたことが結果としてハビビの株を上げた面があったはずです。仮に映画がハビビの政治的復権或いは汚名回復を目的として制作され、彼が大統領だった時期だけに焦点を合わせていたら、あれほどの大ヒットにはならなかったでしょう。政治家ハビビではなく、誠実な夫ハビビという物語だから大ヒットしたのです。逆説的ですが、結果としてはもっとも成功した「夫婦愛プロパガンダ映画」と言えるかもしれませんね。

横山さんは2作目の『ルディ・ハビビ』に言及していませんが、数あるナショナリズムものの中でもかなり水準の高い作品で、シリーズの中では一番のおススメです。実は看板に偽りありで、将来の妻アイヌンはほとんど出て来ない、どころかなんとチェルシー・イスラン演ずるインドネシア語を流暢に話すポーランド人(!)からハビビ演ずるレザ・ラハディアンが好意を持たれて恋仲になります。制作者自ら冒頭で、「この作品は実話からインスピレーションを得ています」と断っているので、フィクションと考えて差し支えないのですが、留学生同士の確執や、恋とナショナリズムの狭間でハビビが教会で悩む場面などは実に見応えがあります。おまけにハビビがイスラーム信仰に忠実である描写までしっかり入れて敬虔なムスリム観客の歓心を買い、留学生仲間たちとの描写は若者らしい華やかさと賑やかさに溢れており、海外在住インドネシア人の群像劇としてもかなり楽しめます。本作を「政治的プロパガンダ映画」と呼ぶのは不適切ですが、かと言って「夫婦愛プロパガンダ映画」と呼ぶのも実際に妻となるアイヌンの出番がほぼない以上無理があり、はてさて悩ましいところです。恋あり友情あり学問あり、そして信仰ありナショナリズムありの、まさにてんこ盛りと言ってもいい娯楽大作と呼ぶのが妥当なところでしょうか。

『ハビビとアイヌン』2作目の『ルディ・ハビビ』({rudy Habibie})ポスター 。西ドイツを舞台にした留学生群像劇として出色。フィクションを多数含むも、ナショナリズムものとしても極めて高い完成度。imdb.comより引用。

続く3作目は完全にアイヌン視点での同じ物語の語り直しで、こちらも2作目同様、将来の夫ハビビを差し置いて、大学の同級生と恋仲になります。恋とナショナリズムの間で主人公がどれだけ悩んでも、最後に誰が選ばれるのか誰もが知っているわけですが、それでも3作目も大ヒットしたのは、観客の欲望に忠実に応える作りだからでしょうか。正確な事実を反映した伝記映画ではなく、インドネシア人が理想とする夫婦像を観客が欲し、それに制作者も応えた結果と私には思えます。

おそらく原作者ハビビの意思を遥かに超えたところで成立したのが『ハビビとアイヌン』シリーズの興行的成功でした。いずれ別稿にて、原作との詳細な比較、2作目の面白さの源泉、そして日本人の天才航空エンジニアの物語を鳥肌が立つほどの美しくも恐ろしいファンタジーに仕上げた『風立ちぬ』との比較を通して、再度論じてみたいと思います。

最後に、横山さんが挙げた作品の中で私が観ている『アホックと呼ばれる男』(A Man Called Ahok)について短くコメントします。

『アホックと呼ばれる男』は端的に言って看板倒れの映画です。アホックを観に行ったつもりの観客は、実はアホックの父の物語を延々と見せられるのですから。なるほど、アホックの父キム・ナムがアホックの人格形成に与えた影響は大きかったのでしょうが、前半は完全に父親が主人公です。後半になって成人したアホックがようやく登場しますが、彼が政治家を志すまでの葛藤に父はさほど関与しません。しかもアホックが全国的に知名度を上げたジャカルタ首都特別州副知事時代のエピソードには全く触れず、ラストは回想の中で父親に愛国心をそれとなく語らせておしまいです。アホックが釈放前の劇場公開だったので、反アホック派と支持派の無用な衝突を避ける意味では無難と言えば無難な結末なのかもしれません。しかし、ナショナリズムで全ての問題は解決されるかのような結末は、単なるご都合主義というだけでなく、脚本家が手を抜いているとしか思えない安易さで心底失望しました。ナショナリズムは魔法の杖ではなく、必ず何かしらの葛藤を伴わなくてはドラマにならないというのに・・・。

つまるところ、アホックが多くのインドネシア人からあれほど熱狂的に愛されると同時に憎まれた背景を、つまりは彼の出自が華人かつ宗教的少数派のプロテスタント教徒であり、非常に率直的かつ攻撃的な憎まれ口を誰に対してもおこなっていたことの描写を、本作は敢えて回避している点が私には非常に不満でした。

ところが、興行的には本作は充分成功を収めているのが面白いところです。観客動員数約150万人というのはこの種の「政治的プロパガンダ映画」としては間違いなく成功の部類でしょう。ただし、現状から言えば、刑期を終えて釈放されたアホックは闘争民主党に入党こそしたものの、議員になるでもなく、或いは地方自治体の首長になるでもなく、国営企業プルタミナのコミッショナーでしかないので、彼の政治的復権が本作によって後押しされたとは言えません。にもかかわらず本作の興行的成功は、作品の質に関係なく彼の人気が全く衰えていないことの証左でもあり、プロパガンダそのものは失敗だとしても、反アホック派に対する一種の示威行為としては成功したことを意味しているのでしょう。つまらないプロパガンダだからと言って無視できない作品、それが『アホックと呼ばれる男』に対する私の総合的評価です。

『アホックと呼ばれる男』(A Man Called Ahok) ポスター。「家族の食卓」場面が何度もあるのに、ただご飯を食べるだけの凡庸な演出の連続が映画の質を象徴している。filmindonesia.or.idより引用。

**********

さて、ようやく本題のインドネシア製怪奇映画「ガドガド・ホラー」について本格的に語ることができます。やれやれ。

前回第35信ではガドガド・ホラー1.0がどのように2.0に更新されたのか、結論から先に書いて筆をおきましたので、今回は具体的に作品名を挙げて論じてみます。

(⇒『悪魔の奴隷』の旧版新版の比較は既に十分おこないましたので・・・)

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