よりどりインドネシア

2022年03月08日号 vol.113

いんどねしあ風土記(34):ヨーロッパの香り残るジャワの街 ~東ジャワ州・グレンモール~(横山裕一)

2022年03月08日 23:31 by Matsui-Glocal

東ジャワ州東部の地図を見ていると、ふとインドネシアらしくない地名が目に入る。『GLENMORE』。英語風に読めば「グレンモア」だが、実は英語でもインドネシア語、さらにはオランダ語でもない。ジャワ島東端の農業地帯の一角にある同地は、一見特別なものは何もなさそうな小さな田舎町である。なぜここにだけ欧風の地名が残るのか。歴史を紐解くと、そこには名の由来とともに意外なジャワ近代史が浮かび上がってくる。知られざるグレンモール奇譚。

●バニュワンギ県グレンモール

赤印部分がグレンモール。その上の小さな円形はラウン山火口部(Google Mapsより)

グレンモールはジャワ島最東端、東ジャワ州バニュワンギ県の一角にある。行政単位は辞書では「郡」と出てくるが、イメージとしては、日本の政令指定都市でいえば「○○市○○区」の「区」に、郡部でいえば「○○郡○○町(あるいは村)」の「町(あるいは村)」にあたるような、小さな行政単位である。

スラバヤ方面から内陸部を東進し、ジュンブルを過ぎてグミティル山の峠を越えると、穀倉地帯が広がるバニュワンギに入る。街道をさらに東進すると、時折いくつかの小規模な商店街を通り抜ける。そうした、気をつけていないと通り過ぎてしまうような小さな街のひとつがグレンモールである。

地名に惹かれ初めてこの地を訪れたのが2019年9月。街道から北へ折れて少し行くと、『グレンモール』と表示されたトタン屋根のこぢんまりとした建物に突き当たる。グレンモール駅の駅舎だ。東ジャワ州の州都スラバヤと、バリ島のすぐ手前、ジャワ島最東端の街バニュワンギを結ぶ鉄道駅のひとつ。オランダ時代に造られた同鉄道ゆえ、駅長室内にある軌道変更装置もオランダ時代のもので、丁寧に管理・補修されてきたとみえてとてもきれいな状態である。

グレンモール駅

グレンモールは標高3,332メートルのラウン山の南裾野に広がる街で人口7万人余り。ラウン山へ向けて緩やかな坂が続く。街の平均標高も370メートル余りと高台で、日中は気温30度を超すが夜になると約20度まで下がり涼しく、過ごしやすい。

グレンモールから臨むラウン山

街の様子を見る限りでは、伝統市場以外で特に人が賑わう場所もなければシンボルもなく、東ジャワ州東部の他の街と大きな変わり映えはない。ではなぜこの街だけが西洋風の名前を持つに至ったのだろうか。街の人々に聞いてみても、皆「知らない」と答える。住宅街を抜けると登り勾配に沿って広大な田んぼや農園が広がり、その先には乾季の青い空の下、ラウン山が聳え立っていた。

●地元民が解き明かした郷土史 〜グレンモール前史〜

グレンモールを訪れたわずか3ヵ月後の2019年12月、一冊の本が出版された。タイトルは『グレンモール ジャワにあるヨーロッパの街』(Glenmore Sepetak Eropa di Tanah Jawa)で、グレンモール出身の歴史教師とジャーナリストの共著だ。2人は地名の由来や歴史に関する文献資料が地元には一切残されていなかったため、オランダの熱帯博物館(Tropenmuseum)やジャカルタの公文書館などで関連資料を探し、それらをもとに当時の関係者の子孫を訪ね回ったという。実に4年かけての調査結果がまとめられている。

彼らが珍しい出身地の名の由来を調べ始めたきっかけについて、著者の一人で歴史教師のM・イクバル・ファルディアン氏は次のように話した。

「各地で自己紹介する際、出身地を言うと決まって、『外国生まれですか?』と訊かれます。いつもグレンモールを外国の地名と間違えられたからです」

さらにこんな出来事もあった。2013年、ある英語教師のカナダ人がグレンモールを訪れた際、車内から店の看板にグレンモールの表記を見て驚いた。カナダにある彼女の居住地と同じ地名だったためだ。この逸話を聞いて著者2人が調べると、世界中に実に十数箇所もグレンモールという地名を見出したという。これらに共通点はあるのか、なぜインドネシアにもグレンモールが存在するのか。名の由来とともに新たな疑問も浮かび、2人が歴史を紐解き始めた。

グレンモールのある東ジャワ東部地域は、ジャワ最後のヒンドゥー教王国といわれるブランバガン王国が18世紀後半まで栄えたとされている。ジャワで最大規模を誇ったヒンドゥー教王国のマジャパヒット王国が15世紀に崩壊後、新興のイスラム教王国に押しやられるように、ヒンドゥー教徒の大半がジャワ島東端へと移動し、後にバリへと移る過程を示す王国でもある。

グレンモールにはその名残としてヒンドゥー教寺院跡がラウン山の麓に3ヵ所ある。そのうち一つの寺院跡近くの水源はインドのガンジス川につながると信じられていて、現在でもバリのヒンドゥー教徒の一部はこの水源から水をバリへ持ち帰って儀式を行なっているという。ジャワ島最東端に栄えたブランバガン王国に注目したオランダの東インド会社は、激しい戦いの末、同王国を下し、現在のバニュワンギの中心部である港湾地区に拠点を構えた。港湾や道路整備などは全てオランダ東インド会社による地元住民への強制労働で進められ、その一つが、広大な平野部でのプランテーションのための灌漑用水整備だった。

オランダ東インド会社が解散し、オランダ直轄の植民地政府になった19世紀に入っても、コーヒーやサトウキビなどのプランテーションでは地元農民への強制労働が続いた。当初は1年で75日間の強制労働だったのが最終的にはほぼ一年中になったという。このため、自らの食糧を確保できない地元住民たちの大飢饉を引き起こし、人口減少を招くほどの多くの死者を出した。

これにより18世紀後半からオランダ国内でも強制労働に対する批判が高まり、オランダ植民地政府は寛容政策へと転じることになる。寛容政策に伴い、プランテーション運営のオランダ独占を避けるため他国の資本をも受け入れる方策が執られ、主にイギリスの資本家が農園運営に参加した。資料によると、1929年にはオランダ以外の外国投資は全体の30%にまで昇ったという。そして外国資本の導入とともに進められたのが、さらなる農園用地の開拓だった。

その頃、ラウン山麓から平野へと続く途中に位置する現在のグレンモールの地はまだ鬱蒼としたジャングルで、地名がないばかりか居住者もほとんどいない地域だったという。

●ヤシン翁とロス・テイラー ~グレンモール由来史~

ここで後のグレンモール誕生に大きく関わる2人が登場する。ジャワ人で後にヤシン翁(Mbah Yasin)と呼ばれた、ラデン・マス・パンジ・ジョヨディニングラット(Raden Mas Panji Djoyodiningrat)と、スコットランド人の投資家ロス・テイラー(Ros Taylor)である。

シドアルジョ県知事補佐時代のヤシン翁(左は夫人)

ジョグジャカルタの貴族出身であるヤシン翁は複数の欧州言語に堪能だったといわれ、ジョグジャカルタ王のハメンクブウォノ8世がオランダ訪問時に通訳を務めたことから、ラデン・マス・パンジ・ジョヨディニングラットという称号と名前を授かっている。その後、東ジャワ・シドアルジョの県知事補佐となったが、20世紀に入り、新天地開拓を目指して東ジャワのさらに東部、現在のグレンモールのあるジャングルへと行き着く。

ヤシン翁がラウン山の麓に広がるジャングルを選んだ理由は、ラウン山からの水源が豊富にあったことと肥沃な土地だったためとみられる。県知事補佐時代に培った統率力や威厳ある姿勢の一方で、素朴で面倒見が良かったことから、ヤシン翁は仲間からの人望も厚く、精力的に開拓が進められたという。

人心を掴むのに長けていたヤシン翁の逸話として子孫に伝承されているのは、最初に開拓した土地にイスラム寺院を建てたことだ。ここを中心に開拓者らが住居を構え、後のグレンモールの街の中心部が形成されていった。

最初の開拓地に建てられたモスク。ここを中心に街が形成された。

現在のグレンモールにあたる地域は北部の高地、つまりラウン山の麓に近づくほど肥沃だった。これに強く興味を示したのがオランダの外資導入政策で当地を訪れたスコットランド人、ロス・テイラーだった。そして1909年2月24日、ロス・テイラーは同地での農園運営申請をオランダ植民地政府から許可され、ヤシン翁はロス・テイラーの望むように広大な土地開拓を進めた。

この農園会社をロス・テイラーは『グレンモール地所』(Glenmore Estate)と名づけた。ここに初めて、この地にグレンモールという名前が登場することとなった。当時発行されたオランダ語の現地新聞『ジャワ新聞』(Javasche Courant)の1909年3月30日付にもグレンモール地所設立許可が報じられている。

オランダの『ジャワ新聞』1909年3月30日付(サレンバ国立図書館所蔵)

ロス・テイラーがなぜグレンモールと名づけたかというと、3,000メートル級の高山、ラウン山の麓になだらかに広がる高地、それに涼しい気候が彼の故郷、スコットランドの風景と似ていたためであると推測されている。

「グレンモール」は、スコットランドで現在も一部で使用されているゲール語の単語で、グレン(glen)は「丘陵地」、モール(more)は「広々とした」という意味を持ち、今もスコットランドでは丘陵地の代名詞になっているという。時期は前後するが、当時、多くのスコットランド人の投資家が新農園を求めて世界各国に渡っている。前述のように世界各地で「グレンモール」と名づけられた地域はいずれも「広大な丘陵地」という同じような地形の場所が農園や牧地として選ばれている。『グレンモール ジャワにあるヨーロッパの街』の著者の一人でジャーナリストのアリフ・フィルマンシャ氏は次の様に見解を述べた。

「当時の新天地を求めたスコットランド人は農園などに適した丘陵地を探したうえで、祖国の地形と重ね合わせてグレンモール(広大な丘陵地)と名付ける傾向が強かったとみるのが妥当かと考えられます」

その一つがインドネシアの東ジャワ東部のラウン山麓に生まれたわけである。東ジャワ東部の地名も無い開拓地に設立された企業名は、時の流れとともに農園地域を表すようにもなり、最終的には地元住民の間で地名として「グレンモール」の名が定着するに至った。

その過程で大きな要因のひとつとなったのが、1915年頃までにオランダ植民地政府によって建設されたスラバヤ方面からバニュワンギ港湾地区とを結ぶ鉄道の開通である。ロス・テイラーの農園近くに設けられた駅名がすでにグレンモール(当時はグレンモール停車場)と名づけられ、ここから地域名としても人々に認識される契機になったものとみられる。

ロス・テイラーの「グレンモール地所」による農園事業は1920年から始まった。事業許可取得から約10年間かけてヤシン翁が開拓したロス・テイラーの農園は16万3800ヘクタールにも及んだ。農園ではコーヒーやカカオ、ゴムヤシが主に栽培され、開拓でこの地に定住した人々が従業員として働いた。ラウン山からの河川に堰が設けられ、パイプラインで水が工場に送られて収穫物を加工するための動力源となった。

グレンモール地所での農園従業員

工場の動力源となる水を引くパイプライン(写真上)と工場内(写真下)

ヤシン翁が開拓したグレンモールを中心とする地域には、ロス・テイラー以外にもイギリス人やオランダ人が次々と農場を設立して一大農産地となり、オランダ植民地政府もグレンモール地域を輸出農産物の重要拠点と位置付けるに至った。これに伴いオランダによって街が整備され、当時植民地政府が置かれたバニュワンギの港湾地区よりも、グレンモールは賑やかな街だったともいわれている。

グレンモールの街がかつて栄えたことを示す、非常に興味深く印象深い一枚の写真がオランダの熱帯博物館に残されている。

1927年当時のグレンモール中心部の様子

1927年のグレンモールの目抜き通りで伝統市場が開かれている風景を撮影した写真である。販売する人やそれを買い求める人で賑わっている様子が伺える。特筆すべきは電話線が何本も張り巡らされているのが確認でき、東ジャワの片田舎ながらこの地がいかに重要な場所として整備されていたかを示している。

また背景にはラウン山が噴火し、噴煙を上げている様子も捉えられている。熱帯博物館の写真注釈には「ジャワのグレンモールから見えるイジェン山脈のラウン山の火山活動」と記されている。ここで注目されるのは、当時すでにグレンモールが地名として扱われていたとみられることだ。ロス・テイラーが自らの会社に名付けたスコットランドの風景、グレンモールは10年余りで地名になっていたことを裏付けるものでもある。

その後、時代は大きく動き、1943年のオランダ植民地から日本軍政への転換期、さらにはインドネシア独立以降の国有化政策(Nasionalisasi)などの転機を迎えるが、グレンモール地所はロス・テイラーがオランダ人でなかったため没収されずにそのまま農園事業の継続が認められた。しかし、約50年この地で活動したロス・テイラーは1958年、グレンモール地所を華人系事業家に売却してこの地を去った。

(以下に続く)

  • 現在のグレンモール ~街並みから見た欧州時代の名残り~
  • 日本の記録にも登場するグレンモール
  • グレンモールの英雄・ヤシン翁の子孫
  • 歴史が紐解かれたグレンモールその後
サレンバ国立図書館
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