2022年の年明け早々、インドネシアで大きな話題となったのは、エイクマン分子生物学研究所(Lembaga Biologi Molekuler Eijkman)が消滅し、国家イノベーション調査研究庁(Badan Riset dan Inovasi Nasional: BRIN)へ統合される、というニュースでした。この統合で、エイクマン分子生物学研究所(以下、エイクマン研究所と称す)で働いてきた113人が解雇となり、そのうちの71人が研究員である、と報じられました。それに対して、研究者や識者の間から、国家が調査研究を蔑ろにするものだとの批判の声が上がりました。
正面から見たエイクマン研究所。(出所)https://www.ayosemarang.com/umum/pr-772301260/profil-singkat-eijkman-lembaga-beragam-riset-penelitian-biologi-yang-kini-bergabung-dengan-brin
すでに『よりどりインドネシア』第93号(2021年5月7日発行)の拙稿「内閣改造とインドネシア版シリコンバレー構想」で説明したように、大統領の直属機関であるBRINの旗の下、国家科学院(Lembaga Ilmu Pengetahuan Indonesia: LIPI)、技術評価応用庁(Badan Pengkajian dan Penerapan Teknologi: BPPT)、原子力庁(Badan tenaga Nuklir Nasional: BATAN)、航空宇宙研究院(Lembaga Penerbangan dan Antariksa Nasional: LAPAN)の4機関は、BRIN内部の調査・開発・研究・応用実施組織(Organisasi Pelaksana Litbangjirap: OPL)として、2022年1月から統合されることが決定されていました。決して、急に出てきた話ではなかったのです。
エイクマン研究所は技術評価応用庁(BPPT)の中に含まれおり、その意味で、政府としては、BRINへの統合は規定路線でした。程度の差こそあれ、政府内に存在する「研究者」「研究員」という名の人材は、一元的にBRINの傘下に集められ、一括管理されることとなったのです。すでに、政府各省庁内の74部局、39機関に所属する「研究者」「研究員」がBRINへの異動対象となっており、すでに1万2,000人余に対して人事異動が発令されました。他方、前述のように、多くの「研究者」「研究員」が解雇されました。それが象徴的な形で現れたのがエイクマン研究所のケースだったのです。
エイクマン研究所とは、いかなる研究機関なのでしょうか。なぜ、エイクマン研究所の多数の研究員は解雇されてしまったのでしょうか。エイクマン研究所が担ってきた調査研究はBRINで継承されるのでしょうか。研究機関のBRINへの統合は今後のインドネシアの調査研究と科学技術の発展にとって効果的なのでしょうか、
今回は、これらの疑問の答えを探すとともに、インドネシアにおける調査研究と科学技術の今後について、改めて考えてみたいと思います。
●エイクマン研究所とは
エイクマン分子生物学研究所は、ジャカルタにある分子生物学とバイオテクノロジーに関する非営利の研究機関で、BRINへ統合されるまでは技術評価応用庁(BPPT)の管轄下にありました。エイクマンという名前の由来は、1929年にノーベル生理学・医学賞を受賞したオランダ人の医師・生理学者のクリスティアン・エイクマン(Christian Eijkman)博士(1858~1930)の名前に由来しています。
元々、オランダ植民地時代の1888年から蘭領東インドには病理学・細菌学に関するオランダの財団経営による研究所が存在していました。エイクマン博士はこの研究所の所長として赴任し、脚気の研究を進めました。そして、ニワトリのエサの研究から、玄米に含まれるが精米に含まれていない特定の成分(ビタミンB1)が脚気の原因であることを突き止めて、ノーベル賞の受賞に至りました。そして、この研究施設の設立50周年を機に、エイクマンの名前を冠した研究施設となりました。その結果、エイクマン研究所は、ノーベル賞受賞者を輩出したインドネシア唯一の研究機関となりました。
クリスティアン・エイクマン博士。(出所)https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1929/eijkman/biographical/
エイクマン研究所はその後、病理学・細菌学に関する研究施設として熱帯病予防研究などで成果を上げていきます。しかし、日本軍政期、エイクマン研究所で働くオランダ人研究者は全員逮捕され、施設は日本軍の支配下におかれました。
そして、ジャカルタのクレンデル収容所で、「発症チフス・コレラ・赤痢」の混合予防ワクチンを接種された多数のロームシャが死亡する事件が発生し、エイクマン研究所初の非オランダ人所長となっていたモフタル博士が責任を取らされ、処刑される、という事件が起こりました。このいわゆる「モフタル事件」については、『よりどりインドネシア』第77号(2020年9月7日発行)の拙稿「モフタル事件再考:900人余のロームシャはなぜ死んだのか」で触れました。また、この事件については現在、インドネシア歴史研究者の倉沢愛子氏が独自の膨大な資料をもとに、研究書を執筆中です。
インドネシア独立後も、エイクマン研究所は存続していましたが、スカルノ時代の1960年代に閉鎖されました。その後、1990年代になって、当時のハビビ科学技術担当国務大臣の強力な後押しで復活しました。
ハビビ大臣は、エイクマン研究所復活のために、オーストラリアのモナシュ大学分子生物学研究所長だったサンコッ・マルズキ(Sangkot Marzuki)博士に帰国を促しました。サンコッ博士はエイクマン研究所の所長職を引き受け、1992年7月、分子生物学・バイオテクノロジーに関する研究所として再スタートを切りました。当時のスハルト大統領は1990年12月にエイクマン研究所の再開を了承していました。そして、1993年4月から公式の活動が開始され、1995年9月15日、正式な開所が宣言されました。
以上のように、エイクマン研究所は、植民地時代のオランダ由来の病理学・細菌学の研究所で、いったんは閉鎖されるものの、1990年代に分子生物学・バイオテクノロジー研究という新たな装いで復活し、現在に至っています。
直近では、新型コロナウィルス感染症に関する調査研究を行ってきており、国産ワクチン(「メラプティ・ワクチン」と称される)の開発で中心的な役割を果たしてきていました。
このようなエイクマン研究所が消滅するという報道が、識者の衝撃をもって受けとめられたのは、想像に難くありません。
エイクマン研究所内で作業中の研究者。(出所)https://tekno.tempo.co/read/1497957/pengembangan-vaksin-merah-putih-kepala-eijkman-hasil-uji-protein-s-luar-biasa
(以下に続く)
- エイクマン研究所は正式な研究機関と見なされていなかった
- 「メラプティ・ワクチン」開発の現況
- 政府・BRINのエイクマン研究所に対する冷淡な態度
- 研究機関をBRINへ統合する意味
- 研究機関のBRINへの統合よりも政府に求められるもの
読者コメント