よりどりインドネシア

2022年01月08日号 vol.109

ラサ・サヤン(26)~イスマイルとクロンチョン~(石川礼子)

2022年01月08日 23:14 by Matsui-Glocal

“Sepasang Mata Bola” (二つの瞳)の背景

Hampir malam di Jogja(夜間近のジョグジャカルタ)
Ketika keretaku tiba(電車が到着したその時)

Remang-remang cuaca(薄暗い空気の中で)

Terkejut aku tiba-tiba(突然驚いた私)

Dua mata memandang( 二つの目が私を見つめる)
Seakan-akan dia berkata(何か言いたげに)


Lindungi aku pahlawan(将校さん、残忍な人たちから)

Daripada si angkara murka(私を守ってください)

Sepasang mata bola(二つの瞳が)
Dari balik jendela(窓の奥で光る)

Datang dari Jakarta(ジャカルタからやってきて)

Menuju medan perwira(戦地へと向かう)

Kagum 'ku melihatnya(私が見つめ返すと)
Sinar sang perwira rela(将校さんは微笑む)

Hati telah terpikat(私の心は魅了され)

Semoga kelak kita(いつかまた会えることを)

Berjumpa pula(祈るばかり)

 

Sepasang mata bola(二つの瞳が)
Dari balik jendela(窓の奥で光る)

Datang dari Jakarta(ジャカルタからやってきて)

Menuju medan perwira(戦地へと向かう)

Kagum 'ku melihatnya(私が見つめ返すと)
Sinar sang perwira rela(将校さんは微笑む)

Hati telah terpikat(私の心は魅了され)

Semoga kelak kita(いつかまた会えることを)

Berjumpa pula(祈るばかり)

(訳:石川礼子、一部意訳)

これは、イスマイル・マルズキ(Ismail Marzuki)とスト・イスカンダール(Suto Iskandar)が1946年に作詞・作曲した“Sepasang Mata Bola” (二つの瞳)というタイトルの有名なクロンチョン曲です。

“Sepasang Mata Bola”のイメージ写真

昔のクロンチョン・バンド

以前、『よりどりインドネシア』第73号(2020年7月8日発行)所収の拙稿「ラサ・サヤン(7):私のインドネシア音楽」で紹介したように、「クロンチョン」(kroncong)は、インドネシアを代表する大衆音楽で、16世紀にインドネシアの島々にやってきたポルトガルの船員たち(ポルトガル人、アフリカ人、アラビア人たち)の音楽がインドネシアの音楽と混ざって、混交音楽として生み出されたものです。クロンチョンは、「世界一古いポピュラー音楽」としても知られています。

男性・女性歌手、そして伴奏楽器としてフルート、ヴァイオリン、チェロ、ギター、ベース、チャッ&チュッ(ウクレレに似た小型ギター)が加わり、打楽器は使用されず、弦楽器だけでリズムを作るため、ハワイアン音楽のような軽やかでゆったりとしたストリング・サウンドや、時に演歌のような独特の抑揚とメロディの歌声が楽しめます。

クロンチョンは戦前から大衆演劇の音楽としても演奏され、地方巡業とともに全国に広まっていきました。1942年、インドネシアに侵攻した日本軍も、これを軍の宣伝に利用しました。そこで良く演奏され、歌われたグサン・マルトハルトノ(Gesang Martohartono)作の “Benganwan Solo” (ブンガワン・ソロ) は、当時駐留していた日本兵にも大いに愛された曲の代表です。同曲は終戦後、日本人歌手の松田トシが日本語ヴァージョンで歌い、大ヒットしたため、日本でも広く知れ渡りました。

1945年のインドネシア独立以降、クロンチョンはナショナリズムを高める国民音楽としての役割を担い、公的行事や教育の現場、ラジオ番組などで盛んに歌われるようになりました。インドネシア国歌の“Indonesia Raya”も、当時はクロンチョン曲として制作されました。

前述の“Sepasang Mata Bola”の曲の背景には、1946年1月4日のジャカルタからジョグジャカルタへの臨時首都移転があるようです。スカルノ=ハッタ正副大統領がインドネシアの独立宣言を果たした後、独立を認めない旧宗主国オランダの再侵攻を恐れて、イ政府は首都をジャカルタからジョグジャカルタへ一時的に移転しました。スカルノ大統領も、臨時列車でジョグジャカルタへ退避し、一部のイ独立軍もジョグジャカルタへ移動したようです。1947年7月、オランダ軍はジャワ島西部のジャカルタ、チレボン、南部のチアミス、タシクマラヤ、北部のスマラン、マゲラン、スマトラのメダン、パレンバンなどの主拠点を占領し、臨時首都だったジョグジャカルタにも迫ったのです。1948年12月19日、オランダ空軍の爆撃機によってジョグジャカルタのマグウォ(Maguwo)空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭印軍は地上から侵攻し、12月23日までにはジョグジャカルタを陥落させたのでした。

この曲は、そんな戦時下に電車がジョグジャカルタ駅に到着し、駅に居合わせた少女と、これから生死を分ける戦地へ赴く将校が一瞬、見つめ合い、情を通わせる瞬間を歌った切なく、また美しい曲です。インドネシア共和国第3代大統領の故ユスフ・ハビビ氏が愛してやまなかった曲としても有名です。いつの頃からか不明ですが、ジョグジャカルタのトゥグ駅とレンプヤンガン駅での列車の発着の際には、この“Sepasang Mata Bola”がスピーカーから流れるようになりました。

現在のジョグジャカルタ・トゥグ駅の外観

現在のジョグジャカルタ・トゥグ駅の駅構内

さて、この曲を作ったのはイスマイル・マルズキ(Ismail Marzuki)という、インドネシア史上、最も偉大な音楽家のひとりで、その名前は、総合文化施設「タマン・イスマイル・マルズキ」(Taman Ismail Marzuki: TIM)にも使われています。イスマイル・マルズキという人物を知らない方でも、中央ジャカルタにあるTIMの存在は知っているという方が多いと思います。コロナ禍以前には、日本から来たアーティストや劇団などが時折、TIMで公演していましたから。TIMの敷地内には、ジャカルタ芸術大学、800名収容の劇場や中小規模の劇場、ギャラリーや野外劇場などがあります。

イスマイル・マルズキ

現在リノベーションが進むタマン・イスマイル・マルズキ文化施設

(以下に続く)

  • イスマイル・マルズキの生い立ち
  • クロンチョンのいま
この続きは1ヶ月無料のお試し購読すると
読むことができます。

関連記事

ロンボクだより(61):渡せなかったお金(岡本みどり)

2022年01月22日号 vol.110

ラサ・サヤン(27):~マスック・アンギンの治療法~(石川礼子)

2022年01月22日号 vol.110

ウォノソボライフ(48):ウォノソボ三傑物語(3):キアイ・コロデテは解脱したか(神道有子)

2022年01月22日号 vol.110

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)