よりどりインドネシア

2021年12月08日号 vol.107

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第31信:イスラームと怪奇映画の深くて怖い関係 ~誰がガドガド・ホラーを恐れるか?~(轟英明)【2021年12月15日まで無料全文公開】

2021年12月08日 20:12 by Matsui-Glocal

横山裕一様

前回は日本でのワクチン接種などの私事が重なり連載を休ませていただきました。早いもので、一時帰国して3週間が経過、数ヵ月前までは日本でもインドネシアでもコロナウイルスが猛威を振るっていたものの、現在両国では表面上鎮静化したようです。感染者数が激減した理由がいまいちはっきりしないため、何か腑に落ちない気分は残っているのですが、ひとまずホッと一安心。

さて、3年ぶりの日本なので映画でも観に行こうかなと思っていたのですが、話題の東京国際映画祭は開催時期が自主隔離期間と重なったため、前回冒頭で言及したエドウィン監督最新作『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』(原題Seperti Dendam, Rindu Harus Dibayar Tuntas、映画祭での上映タイトルは『復讐は神にまかせて』)は残念ながら見逃しました。が、かつて一緒にエドウィン監督にインタビューしたこともある旧知の友人曰く、鑑賞後、あまりの作品の素晴らしさに席を立てなくなるほど良かったとのこと。つい先日はジャカルタでもプレミア上映会が開催、インドネシア本国での一般公開は12月2日からで、予想どおりというべきか成人指定となっています。

『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』予告編 Seperti Dendam, Rindu Harus Dibayar Tuntas | Trailer Resmi - Di Bioskop 2 Desember 2021 (18+) https://youtu.be/fqvWIaGo3Y4

ほとんど実験映画に近かった長編デビュー作『空を飛びたい盲目の豚』(Babi Buta Yang Ingin Terbang)と二作目『動物園からのポストカード』(Kebun Binatang)ではセックスと暴力の直接的な描写も厭わないエドウィン監督でしたが、商業映画に転向した三作目『ひとりじめ』(Posesif)と四作目『アルナとその好物』(Aruna & Lidahnya)ではそうした場面を一応封印していました。それでも、『ひとりじめ』と『アルナとその好物』では所々に観客が予期せぬ形での登場人物たちの暴力性とセクシャリティの噴出が散見され、実にエドウィン監督らしいと思いましたが、『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』においては原作者にして脚本も担当したエカ・クルニアワンのブラックユーモアも加わり、予告編や各種動画を見るだけで期待が高まる一方です。ああ早く観たい!

『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』製作裏話シリーズ。この回には撮影監督を務めた芦澤明子さんが出演。DI ANTARA RINDU DAN DENDAM EPISODE 1: EDWIN DAN AKIKO ASHIZAWA https://youtu.be/H4vxe_P5kzo

その他、こちらも前評判の高いカミラ・アンディニ監督作『ユニ』(Yuni)は12月9日から、先日のインドネシア映画祭(FFI)では12部門受賞の快挙を成し遂げた『コピー屋』(Penyalin Cahaya)は来年1月からネットフリックスでの配信が決まっています。

『コピー屋』(Penyalin Cahaya)のポスター。光を複製する者という意味の原題が素晴らしい。filmindonesia.or.id より引用。

コロナ禍で停滞していたインドネシア映画界がコロナ禍収束と時を同じくして復活しつつあるように見えるのは、それらの作品がコロナ禍以前から準備と撮影が行われてきた事実から考えて、偶然なのでしょうが、しかし嬉しいことには違いありません。横山さんは上記新作3本のうち、どの作品に一番期待しているか、次回教えていただければと思います。

前回第30信で横山さんはインドネシア映画における性表現という視点から『アバウト・ア・ウーマン』(About a Woman)と『モアンマル・エムカのジャカルタ・アンダーカバー』(Moammar Emka’s Jakarta Undercover)を取り上げてくれました。インドネシア映画における性表現を論じるうえで欠かせないのは検閲の存在ですが、日本と違い、公的機関によるものと社会的規範によるもの双方からのアプローチで論じる必要があると考えます。突き詰めると、インドネシアにおける表現の自由とは何か、「わいせつ」と「芸術」の違いは何か、インドネシアの現在の憲法は果たして表現の自由を保障しているのかという大きな問題を考えざるを得ず、正直私の手に余ると思い、あまり深く考察できていません。ただ、検閲の基準がその時代の風潮と政権の意思によって融通無碍に変化してきた歴史的経緯は指摘しておきたく、「インドネシアは性的表現を忌避するムスリムが多数派の国だから表現の自由は抑圧されている」という言説への反論または補足説明は具体例を挙げていずれ行いたいと思います。

なお、『アバウト・ア・ウーマン』は私もNetflixで観ましたが、インドネシアではジャンルとしては成立していない、老人を主人公にした非常に珍しい映画で、ミニマルなスタイルで老女の欲望と孤独を語っていたことに軽く驚きました。テディ・スリアアトマジャ監督は非常に過激な描写を含む『ラブリーマン』(Lovely Man)をこの作品の前に撮っており、いやはや攻めているなあと素直に感心しました。彼は初期作品から性的欲望をテーマにした作品を、登場人物を老若男女問わずに撮ってきました。『ラブリーマン』よりも前、日本軍政期の描写もある『マイダの家』(Ruma Maida)は過去と現在を交錯させる意慾的な試みがものの見事に失敗した作品でしたが、作家論を書きたいと思わせるキャリアと演出力のある監督ですね。

同じくNetflixで見られる最新作の『帰郷』(Pulang / Affliction)は中部ジャワの田舎を舞台にしているにもかかわらず土着性の薄いホラー、あるいは現代的スリラーで、ある意味「老人介護もの」でもあるのですが、主人公を『アバウト・ア・ウーマン』同様、ベテラン女優のトゥティ・キラナが演じています。彼女の演技には安定感があって、一挙一動をただ見ているだけで満足してしまうくらい、私は好きです。『よりどりインドネシア』寄稿者の神道有子さんのご友人が出演(撮影はウォノソボ周辺の模様)、またインドネシアにおいて家族の形が変貌しつつあることも的確に描写されていて実に見ごたえのある作品でした。もし横山さんが未見でしたら是非どうぞ。いつか神道さんも交えて、地元視点からの『帰郷』批評会をワイワイガヤガヤやってみたいものです。

『帰郷』(Pulang / Affliction)ポスター。ミー・オンクロックほかウォノソボ郷土料理も(隠れた)見どころの一つ。filmindonesia.or.idより引用。

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例によって前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ本題です。前回に続き、インドネシア映画を宗教の視点から分析するシリーズの4回目、本丸とも言うべきホラーものを今回は取り上げます。

ただ、これはあくまで私の個人的趣味なのですが、東南アジアで膨大に制作されてきたホラー映画を詳細に分析した先行者である四方田犬彦さんの研究書『怪奇映画天国アジア』に敬意を表して、以後、敢えて古風な「怪奇映画」という呼称を主に使用させてください。私の映画観と映画の論じ方は四方田さんの書物に多くを負っており、なかでも今回の分析の枠組みは同書のほとんど援用だからです。

『怪奇映画天国アジア』四方田犬彦著(白水社)。タイとインドネシアの怪奇映画が主に論じられています。四方田さんは映画研究者ではあっても地域研究者ではないためケアレスミスや誤記が散見されますが、今もって他に類書がほぼないユニークな著作。

実は、インドネシアの怪奇映画については別の媒体で3回にわたって論じたことがあり、現在は自分のブログにそれらを掲載しております。

上記の記事は3年前に書いたもので、さらに四方田さんの前掲書は2009年に出版された本です。私の記事の論調を訂正する必要はないと考えていますが、このわずか数年の間にインドネシア製怪奇映画に対する世間一般の評価は大きく変化しました。それは観客動員数上位の作品で怪奇ものの占める割合が増えたというだけでなく、昨年の米アカデミー国際長編映画賞インドネシア代表にジョコ・アンワル監督の怪奇映画の傑作『呪いの地の女』(Perempuan Tanah Jahanam)が選出されたという事実が何よりの証左でしょう。かつては低俗で荒唐無稽で真面目に論じるには全く値しないジャンルと見られ、映画人からも露骨に馬鹿にされていたB級の怪奇映画が、気づいたらA級に昇格している現状には戸惑いも若干覚えるものの、慶賀すべきことと前向きに捉えたいと思います。ただ、最近公開された個々の作品を別個に論じているだけでは、ジャンルとしての歴史をそれなりにもつインドネシア製怪奇映画の総体を把握することは困難です。インドネシア製怪奇映画のことを私は「ガドガド・ホラー」と呼称することがありますが、ガドガド・ホラー1.0がどのように2.0になったのか、その格好のサンプルとして『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan)の1980年旧版と2017年新版を今回は比較して論じてみたいと思います。

前掲の私のブログ記事「映画『悪魔の奴隷』が描く恐怖とは何か」(https://ahmadhito2017.blogspot.com/2018/02/5.html)を書いた時には、新版で脚本と監督を務めたジョコ・アンワルが作品に込めた意図を半分程度しか理解していなかったため、本稿では横山さんや『よりどりインドネシア』の読者が同記事を読まれているという前提、同記事への追記という形で以下文章を進めます。映画の細かいディテールや結末にも触れざるをえませんので、その点は何卒ご了承ください。

『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan)1980年旧版チラシ。filmindonesia.or.idより引用。

旧版がイスラーム擁護、イスラーム推しの映画であるとすれば、新版は反イスラーム、イスラーム下げの映画であることは誰がどう見ても明瞭で、同じタイトルでありプロットも大筋では変わらないにもかかわらず、これほどメッセージが正反対の作品は珍しいかもしれません。以下作品のメッセージを規定しているラストの展開を比較してみましょう。

旧版では、蘇った死者たちと邪教の手先をイスラーム導師(キアイ)が聖なるクルアーンの文言で葬り去ります。主人公一家は心からのイスラームへの帰依を誓い、モスクでの集団礼拝に参加します。礼拝を終え、晴れ晴れとした表情でモスクから出てくる一家。めでたしめでたしと思わせた直後、謎の訪問者の到来を示唆して唐突に物語は終わります。

ところが、新版の方では、イスラーム導師(ウスタズ)は蘇った死者たちの脅威には全くの役立たずで、主人公一家と雑談をする以上の役割を与えられていません。案の定、彼は殺害されてしまいますが、誰が手を下したのか、どのように殺されたのかは描かれず不明のままです。結局、主人公であるリニの一家は祖母の友人ブディマンの助けで窮地を脱し、真の「悪魔の奴隷」が誰だったのかを知り観客ともども戦慄します。1年後、何事もなかったかのようにジャカルタの安アパートでリニの一家はみんな幸福そうに暮らしています。が、隣人の親切そうですが謎めいた女性ダルミナは、ようやく彼らを「収穫」できることに喜びを感じ、パートナーとダンスを始めて幕となります。

恐怖が去ったと思わせておいて、実はまだ物語は終わっていないことを示唆して幕を閉じるのは怪奇映画の約束事で、その点では旧版も新版も変わりないものの、その内実は相当に異なっていることは明白です。旧版のラストはいかにも取って付けたような感じで、余韻も何もない終わり方ではありますが、ただイスラームの優位性や正当性はいささかも揺らいでいません。しかし、新版ではイスラームが邪教に対して無力であることとその敗北が、ウスタズの死によってはっきり視覚化され、さらに大きな謎をいくつも観客に投げかけて終わります。

リニの一家はこの後どのような恐怖を味わうのか。悪魔の奴隷であった弟イアンが再登場するのか。リニたちの「収穫」を喜ぶ隣人ダルミナは一体何者なのか。彼女の部屋に貼られている地図に立っている赤いピンは何を意味しているのか。いや、そもそもこの物語における「邪教」とは一体どういう存在で何を奉じているのか。

これらいくつもの謎を投げかけられた観客はその不可解さゆえに上映後も漠とした不安を感じざるを得ず、それゆえこの一見派手さはほとんどなく、流血シーンも限られた、どちらかと言えば古風な怪奇映画の趣をもつ新版が記録破りの大ヒット(国内観客動員数は2017年第1位で約420万人)、さらに日本をはじめとする海外でも好評を博したのだと思います。

しかし、この論考ではさらに一歩進み、「邪教」の正体とは何なのか、旧版との比較もしながら以下いくつかの疑問点を指摘し、さらに新版が描こうとした真の恐怖とは何なのか、考察してみます。

『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan)2017年新版ポスター。filmindonesia.or.idより引用。インドネシアではNetflixで旧版・新版、日本ではアマゾンプライムで新版を鑑賞可能。

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第1の疑問は、邪教の位置づけです。旧版では地方都市の富裕な一家の母親の埋葬場面から物語が始まります。母親の死亡原因については何も説明がありませんが、どうやら病死か自然死のようです。以後、一家は母親の、使用人の、恋人の幽霊に悩まされ、やがて彼らを操っていたのが邪教を奉じる使用人ダルミナの仕業であることが判明します。が、ダルミナが一家の安寧を乱す理由は判然とせず、彼らが世俗的で宗教的行為を実践しない不信心な家族だからというのが何となく推測される程度です。ラストでダルミナはより強い霊能力?を持つキアイにあっけなく敗北し、「正しい教え」であるイスラームの勝利が宣言されます。つまり、イスラームという「正義」を引き立たせるための「やられ役」としてしか、旧版における邪教の存在意義はありません。邪教といっても内実は空っぽで引き立て役以上のものではないわけです。

もう一方の新版では、蘇った死者たちがリニの一家を襲う理由は一応理屈を伴って説明されます。それは、不妊体質で結婚を反対されたマワルニ、すなわち主人公リニの母親が子宝を得るために邪教集団に参画し、その見返りに「悪魔の奴隷」たちから生贄を求められるというものです。ただ、その説明は登場人物たちの台詞や怪しいオカルト雑誌の記事の引用という形であり、なぜかワンクッション置いた伝聞として語られるのみで、実際に邪教集団の怪しげな儀式などを映像としては全く観客に見せません。怪奇映画の定石からすれば、回想であれ想像であれ、少なくともその片鱗は描くべきである場面が欠落しているのはなぜなのか。死者を蘇らせるほどのおぞましい邪教の実態は曖昧模糊なままで、説得力に欠けると感じる観客がいてもおかしくありません。しかも、旧版ではイスラームを引き立てるための「やられ役」でしかなかった邪教が、新版においては「正しい教え」であるはずのイスラームを完全に打ち負かしているのに、です。なぜ新版において邪教はこのような中途半端な位置づけなのか。

新版における第2の疑問は、マワルニと邪教の関係を多少なりとも知っていたであろうリニの祖母と父がそれについて何も語らないことです。旧版においては主人公一家が邪教に狙われた明確な理由は無きに等しく、要は単なるご都合主義と納得できなくもないのですが、新版の方は一応因果関係があるだけに、この当事者語りの不存在は却って気になります。死の床にありもはや意思疎通もできないマワルニは別としても、リニの祖母や父はなぜ邪教集団について子供たちに何も語ろうとしなかったのか。祖母は序盤で井戸への墜落死という「事故」で亡くなってしまい、それは孫たちに警告しようとしたために何者かに殺されたという推理が成立しなくもないものの、祖母の死に続く親切な隣人ヘンドラの交通事故死同様、「不幸の連鎖」という側面が濃厚で、明確な因果律は示されません。なにより、祖母の友人ブディマンの言葉を信じるならば、祖母こそがマワルニの邪教への参画を結果として促した張本人であって、警告の素ぶりすら観客に示さないのは話の展開として若干不自然と言えるかもしれません。

さらに不可解なのはリニの父の性格と態度です。妻にも子供たちにもどこか冷たい態度で、そもそも何の仕事をしているのか、どうやって生計を立てているのかすら、映画では説明されません。人気歌手であったマワルニの往年の人気曲のロイヤリティを収入源として頼ろうとする様子からは、ひょっとして元々稼ぐ能力のないヒモだったのかとも想像されます。また、彼は妻が亡くなった直後に隣人のウスタズが主宰した集団祈祷の場において、非常にバツの悪そうな、なんとも居心地の悪そうな表情を見せます。イスラームの宗教儀礼に馴染みのない彼が名目上のムスリムであることは一目瞭然ですが、それにしても悪魔の奴隷たちに包囲される段階になっても、自分の妻が参画していた邪教集団について一言の恨み言も言わず、子供たちに説明もしないのは奇異に感じられます。本当に彼は邪教について何も知らないのか。

第3の疑問は、新版の時代設定です。旧版と同様の1980年という設定にしたのは、ひとつにはジョコ・アンワル監督のレトロ趣味であり、彼が愛してやまない旧版に対してオマージュを捧げるためなのでしょう。劇中に携帯電話に象徴される最新のテクノロジーを出したくなかった、また自身の脚本作・監督作では幾度も舞台としている古びた公営アパートで撮影したかったなどの理由も推測されます。しかし、それならば1970年代でも1990年代でも一応可能なはずで、1980年でなければならなかった理由は他にもあるのではないか。1980年があえて選ばれた理由とは何か、果たして1980年とはどんな時代だったのか。

第4の疑問は、蘇った死者たちの正体です。旧版では蘇った死者は母、庭番、恋人とはっきり特定されており、彼らを操るのが邪教を奉じイスラームに敵対するダルミナと明示されます。しかし、新版ではマワルニ、祖母、隣人のヘンドラがそれぞれ不審な死を遂げ、彼らの霊がリニたち一家を悩ますのですが、実は明確に彼らの姿が描写されることはあまりなく、あくまで「ナニカイル、それらしい雰囲気」、あるいは超常現象という描写が中心です。リニたちの家が墓場に面した絶好の立地(?)というご都合主義はここでは一旦脇に置くとして、終盤においてリニたちの家の前に墓場から蘇った死者たちが集まり、やがて家の中へ侵入して来ようとします。なぜかその場面ではマワルニ、祖母、ヘンドラの姿は特定されません。というより、死者たちはその表情を見せず、匿名の存在に留まっています。そして、彼らを操っているのが悪魔の奴隷であった末弟イアンであることが一応示唆されるのですが、実際のところその点もやや曖昧です。結局リニたちはブディマンの助けによって間一髪恐怖にとらわれた家を脱出しますが、謎は残ったままです。リニたちとは一見無関係そうな匿名の死者たちが手の平からこぼす赤い実は一体何を意味していたのか。彼らがリニたちを「迎え」に来たのは、実はイアンに呼ばれたからと言うよりは、むしろリニの一家との関係性から来るもの、邪教の信者同胞だったからではないのか。

以上、4つ主要な疑問点を挙げてみました。こじつけと言われることは承知のうえで、これらの疑問点に対する私の答えは、次のようになります。

すなわち邪教集団とはスハルト政権によって物理的に壊滅させられたインドネシア共産党(PKI)の暗喩であり、邪教とは共産主義を意味し、そして墓場から蘇った死者たちとはスハルト政権によって超法規的に処刑殺害された共産主義者とそのシンパたちを映像化したものではないのか。

この答えに対して反論することは実のところ簡単で、まず登場人物たちは誰一人共産主義のキョの字すらおくびにも出しません。PKI、ペーカーイーという単語が登場人物たちの台詞に含まれることも勿論ありません。一体この映画のどこに共産主義あるいは共産主義者の臭いや痕跡があるというのか、おそらくインドネシアの国家機関である映画検閲局ですらその証拠を見つけることは極めて困難でしょう。にもかかわらず、私の解釈は変わりません。

先ほどから挙げてきた主な疑問点とは、曖昧模糊とした邪教の正体、知っているはずの当事者が口をつぐむ様子、時代設定が1980年であることの必然性、匿名の死者たちの正体といったものでした。これらの疑問は、邪教集団の正体がインドネシア共産党であると仮定したとき、欠落したジグソーパズルを埋めるようにきれいに解決されます。

なぜなら、映画の舞台となった1980年のインドネシアにおいて、PKIという言葉そのものが一般庶民は口にすることすら忌避されるNGワードであり、共産主義とは邪教同然の許されざるイデオロギーというのがスハルト政権の公式見解だったからです。新版における曖昧模糊とした邪教の在り方とは当時の共産主義に対するイメージと恐ろしいほどの類似性が感じられ、子供たちと違い共産主義の何たるかを多少は知っているマワルニたち当事者が黙してその詳細を語ろうとはしないことも80年代初頭の社会の風潮と被ります。かつては人気歌手だった母親が落ちぶれ死んでいく様子はまさしくPKIの凋落そして壊滅と同一の様態です。さらに身元が特定されない蘇った死者たちとはスハルト体制によって超法規的に殺害処刑された、記録にも残っていない無名の人たちをあらわし、彼らが虐殺を逃れて生き延びたマワルニたちを地獄に引きずり込もうとするのが新版におけるクライマックスなのではないでしょうか。

彼らが最初に血祭りに挙げるのがリニの家族ではなくウスタズだったのも、決して偶然などではなく、実際にPKI殲滅に積極的に協力したイスラーム勢力への復讐を優先したためなのではないか。ウスタズは役立たずだったのではなく、新版においては無残に殺されなくてはならない、復讐されるための役だったのです。彼らが手の平から赤い実をパラパラと落としていくのは、共産主義のシンボルカラーが赤であることをあえて誇示していると捉えるべきで、リニたちの父親がどうやって収入を得ているのか不明瞭なのは実際に共産主義者とそのシンパが一般社会から放逐されてまともな仕事に就けなかった事実を反映したものでしょう。

『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan) 2017年新版の一場面。リニ役を演じたタラ・バスロはジョコ・アンワル監督作品の常連ヒロイン。filmindonesia.or.idより引用。

しかし、ここでまた次のような再反論が可能かもしれません。蘇った死者たちは何故1980年になってから復讐するのか、もっと早く復讐することもできたのではないか。大体虐殺のピークは65年10月から翌年にかけてのことで、4人の子供たちの年齢を考慮すると、下の子供2人はPKI壊滅以後の生まれという計算になる。そんななかでマワルニたちは当局の執拗な赤狩りからどうやって逃げられたのか。辻褄があわないのではないか。それにラストにおいて、リニたちの「収穫」を喜ぶ謎の女ダルミナは果たして共産主義者なのか。

これに対する私の答えは次のとおりです。

スハルトが政権基盤を固めた1970年代に入っても公式発表ではPKIの残党狩りは地方でまだ続いていた。摘発された彼らが本当に共産主義者であったのかどうかは検証困難だが、そうした新聞記事は当時のアジア経済研究所が発行した1973年の『アジア動向年報』インドネシア版などでも確認可能であり、また暴動が発生するたびに(壊滅したはずの)PKIが現在も暗躍しているとの言説が政府や国軍の高官の口から度々聞こえてきた事実がある。実際にPKIが暴動の裏で何かしら暗躍していたかどうか、事実としては極めて怪しいものと言わざるを得ないが、少なくとも言説のレベルではマワルニたちが1980年まで生き延びられたのは何ら不思議ではない。

ではダルミナとは一体何者であり何を暗喩しているのか。ここまでの私の解釈が正しいとすれば、導かれる答えはただ一つ、彼女は執拗に赤狩りを続けるスハルト政権の治安諜報機関の喩えに他なりません。インドネシア全土の地図を壁に貼り、あちこちにピンを立てる様子はまさしく諜報機関の所為を想起させるものです。

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さて、そろそろまとめに入りましょう。

『悪魔の奴隷』旧版には意図的な政治的寓意性は含まれていませんが、当時のスハルト政権のイデオロギーを奇しくも反映した内容となっているのが特徴です。邪教は「正しい教え」であるイスラームによって正攻法で排除され、たとえ家族の誰かが亡くなってもイスラームに従えば家族の安寧は回復され世界の秩序を保たれる。これこそ旧版が最終的に伝えるメッセージであり、家族主義と宗教的敬虔さの推奨はスハルト政権が模範とした家族像に合致するものです。意図せずして政権の意向が何らかの形で反映されているのが「ガドガド・ホラー1.0」と言えます。

これに対し新版においてジョコ・アンワルがおこなったバージョンアップ、即ち「ガドガド・ホラー2.0」とは、バージョン1.0からプロットこそ借りているものの、その解釈はほとんど正反対と言ってもよいものです。邪教とは政権から抹殺された、大っぴらに口にすることも憚られる共産主義の暗喩であり、地獄から蘇った死者たちにイスラームはなす術もなく敗北し、しかし逃げ切ったと思っていた共産主義者の子供たちは赤狩りを諦めない当局によって追われ続ける。これこそ新版が観客に提示する物語であり、ここには旧版での道徳臭や教訓話の面影はまるで残っておらず、政権の意向が反映される余地も勿論ありません。こうした作家性の強さと、政権の意向にまるで沿わない荒唐無稽さこそが「ガドガト・ホラー2.0」を規定しています。つまり、新版における真の恐怖とは、死者(≒共産主義者)の復活そのものよりも、スハルト政権による赤狩りの方が遥かに執拗で恐ろしかったという事実を指しているのです。

ただし、ジョコ・アンワル自身が自作を私の解釈のとおりに解説したインタビュー記事を私自身はまだ見つけておりませんので、もし彼に私の解釈を伝える機会があったなら一笑に付されておしまいかもしれませんね。横山さんはまだ『悪魔の奴隷』を新旧両方とも未見のようですが、どのように解釈されるか、機会があれば教えていただきたいものです。

今回はいつにも増して長文の論考となってしまいましたが、インドネシア製怪奇映画にはまだまだ様々な解釈が可能な作品が新旧問わず沢山あります。決して「流血や猟奇的なシーン」を集めただけの作品ばかりではありません。もともとこのジャンルは低予算でお手軽に観客の好奇心と恐怖心を満たすために作られてきたのですが、量は質に転化したと言うべきか、他の国ではあまり見られない独自の進化を遂げてきたのではないかとの仮説を考えています。

これを綿密に証明するには、それこそ四方田犬彦さんの『怪奇映画天国アジア』に匹敵する書物を執筆しなくてはならず、私には到底無理な仕事ながら、次回も引き続き宗教と怪奇映画の関係を1980年代と2010年代の作品を比較しながら考察してみたいと思います。取り上げる作品は80年代の妖花・スザンナの代表作『スンデル・ボロン』(Sundel Bolong)と『黒魔術の女王』(Ratu Ilmu Hitam)、2018年のスザンナそっくりさん映画『よみがえったスザンナ』(Suzzanna: Bernapas dalam Kubur)、それに目下ガドガド・ホラー2.0の最高傑作とも言える『呪いの地の女』(Perempuan Tanah Jahanam, 英語題 Impetigore)あたりを考えています。それではまた次回!

オランダ映画の問題作『東』(De Oost)  ポスター。実在の戦争英雄にして戦争犯罪人でもあるオランダ軍人レイモンド・ウェスターリングがインドネシア独立革命戦争下で行った虐殺行為を彼の部下となった若きオランダ人兵士の目から描く。必見としか言えない、それほどの衝撃作であり傑作。

2021年11月23日(火)千葉県流山市の実家より

轟 英明

<参考文献及びウェッブサイト>

インドネシア映画データベースfilm Indonesia での作品データとあらすじ紹介

インドネシア社会のタブーに鋭く切り込む テディ・スリアアトマジャ監督の「今」https://jfac.jp/culture/features/tiff-teddy-soeriaatmadja-170425/3/

リアル”を映し出す――インドネシアの気鋭監督が貫く信念 「CROSSCUT ASIA #3 カラフル!インドネシア」http://2016.tiff-jp.net/news/ja/?p=41175

四方田犬彦、『怪奇映画天国アジア』白水社、2009年6月 https://www.hakusuisha.co.jp/book/b206434.html

IMDb, De Oost https://www.imdb.com/title/tt8639136/?ref_=ttmi_tt

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