よりどりインドネシア

2021年10月08日号 vol.103

ラサ・サヤン(22)~インドネシア・ラヤ~(石川礼子)

2021年10月08日 23:08 by Matsui-Glocal
2021年10月08日 23:08 by Matsui-Glocal

●独立記念日

第二次世界大戦で、日本が連合国に対して降伏してから二日後の1945年8月17日、オランダ植民地政府がオーストラリアに逃亡したままという権力の空白を縫って、当時44歳のスカルノと43歳のハッタの二人は「インドネシア国民の名において」約350年間続いたオランダの支配からの独立を宣言しました。

その後、インドネシアの独立を認めないオランダとの独立戦争に発展する訳ですが、インドネシアでは毎年8月17日に独立記念日を祝う行事が全国各地で行われます。国会議事堂での年次施策演説を初めとして、大統領官邸では国旗掲揚の式典が開催されます。76回目の記念日となる今年も、前年同様にコロナ感染予防対策を徹底しながらの式典が行われました。

ジョコウィ大統領は毎年、違う民族衣装を着用して出席しますが、今年は、国会では西ジャワ・バンテン州の秘境に住むバドゥイ族の民族衣装を着用し、大統領官邸では、南スマトラ・ランプン州の金糸が織り込まれたソンケット布のきらびやかな伝統衣装を着用して話題になりました。近代文明を拒み、自給自足の生活を続けるバドゥイ族の質素な織綿布で縫製された、一見パジャマに見えなくもない上下のセット、それに木の皮を編んで作られた肩掛けバッグという小物まで揃えて着用した大統領の姿を画面越しに観て思わず失笑してしまいましたが、民族の数が500とも600ともいわれるインドネシアの多様性をこういう形で自ら表現する大統領に僭越ながら拍手を贈りたい気持ちになります。

バドゥイ族の民族衣装を着用するジョコウィ大統領

ランプンの伝統衣装を着用するジョコウィ大統領夫妻

日本語の「旗日」とは、国民の祝日という意味ですが、これは、祝日に多くの家庭が門戸に国旗を掲揚して祝うことから生まれた言葉だそうです。今では、日本のほとんどの家庭で国旗を掲げることはありませんよね。

インドネシアでは、今でも多くの家庭が門戸に国旗を掲げます。とくに独立記念日には、二週間ほど前から国旗が路上等で売られ始めます。そして、8月17日の記念日当日の数日前から掲げ始め、記念日当日には一般家庭だけでなく、政府関連施設、オフィスビル、商業ビル、ショッピングモールなど、メラプティ(紅白)の国旗や紅白幕が飾られ、街全体がお祝いムード一色になります。

ひと昔前は、国旗を掲げないと、RT/RW(住民自治組織)の代表者から注意を受けたそうです。今でも、その慣習が残っている地域があるかもしれません。こういった慣習は「ゴトン・ロヨン」(相互扶助)の一環ですが、これは日本占領期の軍政当局が「隣組制度」を導入したことから慣行化されたものだそうです。

大統領官邸での国旗掲揚

独立記念日当日は街中がメラプティ(紅白)に

●インドネシア・ラヤ

前述の大統領官邸での国旗掲揚時に演奏されるのが、『インドネシア・ラヤ』= インドネシア共和国の国歌です。今回は、この『インドネシア・ラヤ』について、The Jakarta Post紙の記事を交えながら書いてみたいと思います。

インドネシアで生まれ育った訳でもない私は、『インドネシア・ラヤ』の歌を聴く度にこみ上げるものがあり、涙が出てしまいます。とくに、先月閉幕した「東京オリンピック」で金メダルを獲得したバドミントン女子ダブルスの表彰台での国旗掲揚時には大泣きしました。グレイシア選手とアプリヤニ選手はマスクを着用しながらも、泣きながら歌っているのが画面越しに分かりました。生中継配信している番組の司会者や解説者も思わず口ずさむところが、この『インドネシア・ラヤ』の愛国心を駆り立てる魅力だと思わずにいられません。

パンデミック以前の話ですが、インドネシア政府関連の大規模な会議の開催前には必ず全員起立して『インドネシア・ラヤ』を国歌斉唱しました。個人的に驚いたのは、2013年に上映された、インドネシア初代大統領・スカルノの伝記映画“Soekarno”を鑑賞に映画館へ行ったところ、上映前に観客全員が起立して『インドネシア・ラヤ』を斉唱したことや、2019年7月に中部ジャワにあるプランバナン寺院で開催された「プランバナン・ジャズ・フェスティバル」で、海外アーティストのセッション前にも国歌斉唱があったことです。日本で「君が代」を耳にすることは、年に一回もありませんが、インドネシアでは月に一度くらいはどこかで耳にしているような気がします。

『インドネシア・ラヤ』は遡ること、1928年10月28日、インドネシアの青年民族主義者たちがジャカルタで開催した「インドネシア青年会議」で、当時、『新報』(プラナカンによる新聞)の記者だった25歳のワゲ(Wage Rudolf Supratman)が自ら作詞作曲した『インドネシア・ラヤ』をバイオリン演奏で披露しました。オランダ支配下、そして日本占領時には、その歌詞が問題になり、演奏を禁止されますが、独立を目指す人々の間で愛唱歌として広まっていきました。1944年、独立の前年に、スカルノを中心とする国歌委員会が設立され、原曲の一部を変更し、独立後に国歌として制定されました。インドネシア独立を心待ちにしていたワゲは、独立をその目で見ることなく、1938年に35歳という若さで亡くなりました。1971年にインドネシア政府は、ワゲに国家英雄の称号を授与し、現在のインドネシア紙幣5万ルピアの肖像となっています。

Museum Sumpah Pemuda(青年の誓い博物館)に展示されているワゲの人形と『インドネシア・ラヤ』のオリジナル楽譜

ワゲの肖像画が5万ルピア紙幣に

『インドネシア・ラヤ』の歌詞を下記します。歌詞は3番までありますが、ここでは通常、歌われる1番のみをご紹介します。日本語訳はウィキペディアからの抜粋です。

Indonesia Raya    偉大なるインドネシア

インドネシア語歌詞

日本語訳例(ウィキペディアより)

 

Indonesia, Tanah Airku

Tanah Tumpah Darahku

Di Sanalah Aku Berdiri

Jadi Pandu Ibuku

 

Indonesia, Kebangsaanku

Bangsa dan Tanah Airku

Marilah Kita Berseru

Indonesia Bersatu

 

Hiduplah Tanahku, Hiduplah Negeriku

Bangsaku, Rakyatku, Semuanya

Bangunlah Jiwanya, Bangunlah Badannya

Untuk Indonesia Raya

 

** Indonesia Raya, Merdeka, Merdeka

     Tanahku, Negeriku Yang Kucinta

     Indonesia Raya, Merdeka Merdeka

     Hiduplah Indonesia Raya

 

** 繰り返し

 

インドネシア、わが祖国

われらの生まれし故郷

われらは立ち上がる

母国を守るために

 

インドネシアはわれらのもの

われらの国のもの、わが故郷のもの

さあ、われらとともに叫ぼう

「インドネシアはひとつ」だと

 

わが祖国万歳、われらが地に万歳

国民、人民すべて

心も体も目覚めさせろ

偉大なるインドネシアのために

 

** 偉大なるインドネシア、独立、独立

     わが地、わが愛する国

     偉大なるインドネシア、独立、独立

     偉大なるインドネシア万歳

 

** 繰り返し

 

日本語に訳すと、どこか陳腐な軍歌のように聞こえてしまいますが、『インドネシア・ラヤ』の魅力は、インドネシア語の歌詞とメロディーにあると思います。その魅力がどこからくるのか探るため、The Jakarta Post紙の関連記事を訳してみました。一部意訳、また割愛した部分がありますことをご了承ください。

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