グスドゥル(Gus Dur)とはインドネシア第4代大統領、アブドゥルラフマン・ワヒド氏(故人)の愛称で、「ドゥル坊ちゃん」「ドゥル若様」といった意味である。祖父はジャワ島を中心にインドネシア最大のイスラム団体、ナフダトゥール・ウラマ(NU)の創始者ハシム・アシャリであり、父親はインドネシア独立後のスカルノ政権初代内閣の宗教大臣も務めたワヒド・ハシムで、二人とも国家英雄に名を連ねている。
グスドゥルの子供は4人、全員女性である。代々、イスラム教社会、政治の舞台で輝かしい足跡を残す家系に育った4人姉妹は父親亡き後、主に人権、社会活動に取り組んでいる。「寛容の父」と称された元大統領である父親から何を受け継いだのか、元大統領の子供、4人姉妹の現在をみる。
●チガンジュール家族の物語
2021年9月中旬、動画配信サイトで『チガンジュール家族の物語』と題して、故アブドゥルラフマン・ワヒド元大統領のシンタ・ヌリヤ夫人と4人の娘たちが、ワヒド元大統領との思い出話などを2時間半にわたって話した。ワヒド元大統領の誕生日が9月であることをきっかけに企画されたもので、チガンジュールとは故ワヒド元大統領家族の自宅があるジャカルタの地名である。
ウェブ番組『チガンジュール家族の物語』より。上段左から三女アニタ氏、長女アリサ氏、四女イナヤ氏、下段左が次女イエニ氏、下段右が母親のシンタ氏。
番組は一般からの質問に応える形で進行された。初めに「グスドゥル(ワヒド元大統領)から受け継いだものは?」との質問に対し、長女であるアリサ氏が答えた。彼女は現在、人権・社会活動団体「グスドゥリアンネットワーク」の代表を務めている。
「受け継いだものは、多くの人々を助け、協力するための“努力”です」
これを受けて次女のイエニ氏が「受け継いだものが大きすぎます」と笑って付け加えた。元ジャーナリストのイエニ氏はワヒド大統領在任当時、側近として目の不自由な父親の付き添い役をしていたことでも有名である。現在はワヒド元大統領が設立した人権・社会活動団体「ワヒド協会」(The Wahid Institute)を引き継いで代表の一人に名を連ねている。次女イエニ氏が父である元大統領の付き添い役をしていたことについて、本人はこう話した。
「当時、長女のアリサはジョグジャカルタにいて子供がまだ小さかったので、記者経験のある私がやることになりました。本当はアリサのほうがスタミナもあるし、我慢強いんですが」
三女のアニタ氏は現在、ソーシャルメディアで深刻化する誹謗中傷を撲滅する市民団体の副議長や人権・社会団体のスーパーバイザーなどを務めている。彼女もユーモアを交えながら自分の近況をこう話す。
「二人の姉が有名だから、その影に隠れて自由に活動できてます」
四女のイナヤ氏はタレント活動の傍ら、やはり人権・社会活動にも参加していて、新型コロナ禍で開催される同テーマのオンラインセミナーなどの司会も務めている。今回の番組も進行役だった。
「(父から受け継いだものに対しての)宿題、やるべきことが本当に多いです」
没後「寛容の父」と称されたワヒド元大統領の4人の娘たちは、生前父親が力を入れていた、宗教間、民族間の融和、さらに社会福祉を「受け継いだもの」として、それぞれが活動、実践していることになる。
●「グスドゥリアン」
「4人のなかで父の遺志を一番受け継いでいるのは誰か」との質問に対し、3人の姉妹が揃って答えたのが、長女のアリサ氏だった。彼女が代表を務め、父親の愛称「グスドゥル」を団体名に用いた人権・社会団体グスドゥリアンネットワークとはどのようなものなのか。同団体によると、ワヒド元大統領の考え方をもとに社会活動を行うとしている。ワヒド元大統領の考え方とは、一神教の尊重、人権擁護、公正、平等、自由、友愛、質素、正々堂々とした潔い姿勢、伝統的見識の9つのポイントからなり、大統領就任時も含めて彼が一貫して力を入れてきた要素である。同団体の組織は現在、ジョグジャカルタを本部に全国150都市(市、県)に支部を持つ。
社会福祉活動としては、最近では新型コロナウィルスのデルタ株による再流行に伴う緊急支援として企業などから寄付を募り、2001年7月から全国の経済困難な家庭に食糧を配布したり、子供たちに支援金を送ったりしている。さらに新型コロナウィルス感染で両親を亡くした孤児たちに対して、心理学専門家によるメンタルケアや、弁護士による親の財産を守る支援などが行われている。将来的には、新型コロナ禍による孤児たちへの奨学金支援も検討中だという。
新型コロナ禍に伴う食料配給支援(撮影:Gusdurian Peduli)
一方、異なる宗教や民族間で頻発する人権問題では、各地で問題が起きるごとに声明を出し、被害者の支援を行ったりしている。直近では2021年8月下旬、西カリマンタン州シンタン県政府が、イスラム異端派とされるアフマディア団体に対してモスクでの礼拝など宗教活動の停止を命じると、グスドゥリアンネットワークは「信仰の権利を傷つけるものだ」と批判したうえで、同県政府に対してアフマディア活動停止の解除やアフマディアのモスクの安全確保などを求める声明を出している。
ワヒド協会の調べによると、こうした宗教・信仰の自由に違反する事件はここ数年だけでも全国で毎年200件前後、違反行為は250件以上に及んでいて、深刻な状況が続いている。しかし、前述の西カリマンタン州シンタン県の場合でも、グスドゥリアンネットワークが声明を出した翌日にイスラム強硬派がアフマディアのモスクを襲撃、破壊したように、問題解決への道のりは険しい。
インドネシアでの信仰・宗教に対する違反事件(青)と違反行為(赤)の件数。(ワヒド協会調べ)
このためグスドゥリアンネットワークでは、長期的な視野で問題解決に向けた研修会も開いている。2016年、西ジャワ州ボゴールで行われた「若者たちの民族集会」では、異なった民族や宗教間の相互理解をテーマに3日間実施された。参加したのはそれぞれ民族や宗教の異なる、学生をはじめ教育者や市民団体メンバーなど全国から集まった20代の若者約30人だった。集会では「20年後のインドネシアの姿」などについてのディスカッションや、異文化交流を行うことでお互いの違いを認め、尊重する共存社会の実現を模索した。アニサ代表も立ち会い、研修会の意義について当時次のように話した。
「研修会は異なる宗教や民族間での寛容社会の構築に向けた、未来のリーダー育成のためで、彼らが各地で活動し、将来的に問題解決に貢献してくれることを期待しています」
現在起きている問題の即時解決とは別に、時間をかけての草の根的な取り組みともいえそうだ。このほか同ネットワークでは、自然災害やテロによる被害者支援など活動は多岐にわたっていて、次女イエニ氏、四女イナヤ氏が言うように、父親から受けつぎ、やるべきことは「本当に多すぎる」ようだ。
●グスドゥルと4人姉妹
活動団体などは異なるものの、それぞれ人権・社会活動に取り組む4人姉妹は、父親であるグスドゥル(ワヒド元大統領)からどのような影響を受けているのだろうか。長女のアリサ氏が「父はああしろ、こうしろ、こうしなければならないなどとは言わなかった」と話すと、三女のアニタ氏が「自然体だったよね」と付け加えた。そのうえで、彼女たちの母親で故ワヒド氏夫人のシンタ・ヌリヤ氏がまとめた。
「重要なのは、普段は子供たちに命令や指導はしませんでしたが、他人に対して良い対応をしないとグスドゥルが子供たちを叱ったことです。それは近所の人や違う宗教の人だろうと誰に対してもです」
教訓や細かい指導はしない一方で、立場や背景にかかわらず一貫して誠意ある人付き合いをする大切さをグスドゥルは子供たちに身につけさせていたようだ。多民族で多宗教が混在するインドネシア社会で生きるうえで、お互いの違いを認め尊重し合う寛容さが、グスドゥルの子供たちに対する教育でもキーワードだったようだ。
長女・アリサ氏
次女・イエニ氏
グスドゥルがいい父親ぶりを発揮していたエピソードも語られた。長女アリサ氏が高校時代にジャカルタにある学校から帰宅しようとすると、2週間東ジャワに長期出張中だったはずのグスドゥルが突然迎えに来たという。アリサ氏が驚くと、彼は「お母さんは用事で忙しいので来た」と話し、送り届けるとすぐさま空港へ引き返し出張に戻っていったという。
また「グスドゥル」らしいエピソードとして、次女のイエニ氏が「いつもお金を持ってなかったし、気にすらしていなかった」と話し、必要な時に長女からお金を借りた逸話も披露した。三女のアニタ氏も改めて話した。
「父は金や地位に全く無頓着でした」
そんな父親像を持つワヒドだったが、民主化へ向けた政治動乱期では好むと好まざるに関わらず、地位や権力闘争に巻き込まれていくことになる。
4人姉妹が子供の頃、父親ワヒドは祖父が設立したインドネシア最大のイスラム団体、ナフダトゥールウラマ(NU)の総裁だった。NUはジャワ文化とも融合した世俗的な穏健イスラムの特徴を持つ。1990年台後半に民主化の機運が高まりスハルト長期独裁政権が崩壊すると、ワヒドはNUを母体に民族覚醒党(PKB)を結党した。そして、民主的手続きでは初といわれ48政党が乱立した1999年の総選挙で、ワヒド率いる民族覚醒党は12.6%の支持を得て国会議席数第三党の勢力を獲得した。
1999年10月、当時、国の最高機関である国民協議会議員の投票で選出される大統領選挙では、複数のイスラム政党が結集してワヒドを大統領候補に擁立し、それに国会第二勢力のゴルカル党も支持に加わってワヒド大統領が誕生した。これを受けて、当時大統領候補の最右翼にいた国会第一勢力の闘争民主党の党首メガワティの支持者は国会議事堂周辺で暴徒化し、夜になっても治安部隊による催涙弾の発射音がこだました。
ワヒドはスハルト政権末期から民主化の雄としてメガワティと共同歩調をとり、メガワティを「妹」と呼んできただけに、メガワティにしてみれば結果的に裏切られた形になったともいえる。しかし、ワヒドは副大統領にメガワティを指名する。メガワティは当初辞退したが結果的には副大統領就任を受け入れた。
1999年10月ワヒド政権発足時。中央左がワヒド大統領、右隣がメガワティ副大統領。(写真引用:Kampung Gusdurianサイトより)
これにより国会のほとんどが与党になる新政権が発足し、ワヒド大統領は「挙国一致内閣」と名付けた。長期独裁政権の崩壊から民主化への政治混乱期に、多数あるイスラム勢力(政党)をはじめ、旧政権の流れをくむゴルカル党、それに民主化の旗手だったメガワティの闘争民主党、これら相反する全てを収容し混乱を一時的にせよ終結させうる受け皿として、当時ワヒドの存在は適任だったといえるのかもしれない。それぞれを結びつける受け皿としてのワヒドのキーワードは、「イスラム」「民主化」「寛容」だった。
(以下に続く)
- 「寛容の父」、そして「弾劾された大統領」
- 「寛容の父」から娘たちが見出したもの
- 頑固な4人姉妹
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