横山裕一様
インドネシアでコロナウイルス感染者が公式に確認されてから早や1年7ヵ月、ようやく感染者数の減少が首都圏では実感できるようになってきました。先日までは完全閉館していた映画館が少しずつ開き始めました。あいにく所用が重なり、まだ再開した映画館で映画を見る機会を得てないのですが、近いうちに行ければと思っています。ただ、コロナ禍のために公開延期だったハリウッド大作が今か今かと映画館再開を待っていたためか、先日通りがかった近所のシネコンではインドネシア映画は一本も上映されていませんでした。10月4日現在でも、大手シネコン(XXI, Cinepolis, CGV)のアプリからは上映作品のなかにインドネシア映画を1本も確認できませんでした。自国の映画産業にあまりに冷たすぎると思いますが、絶対確実に集客できるハリウッド大作を優先することは、コロナ禍で多大な収入減を被った映画館側としてもやむを得ない措置なのでしょうか。
『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』ポスター。filmindonesia.or.id より引用。インドネシア本国では上映未定。
ただ、本誌寄稿者のお一人、太田りべかさんが推している作家エカ・クルニアワンの原作小説を鬼才エドウィン監督が映像化した『復讐のごとく、恋慕は完遂されるべし』(Seperti Dendam, Rindu Harus Dibayar Tuntas)が8月のスイス・ロカルノ映画祭で最高賞に輝き、日本でも劇場公開された『鏡は嘘をつかない』(The Mirror Never Lies)のカミラ・アンディニ監督最新作『ユニ』(Yuni) が先月のトロント映画祭で入賞したことは、インドネシア映画界にとって明るいニュースになりました。コロナ禍にあってもインドネシア映画の国際的評価とその勢いは衰えてないようで、とくに前者は、黒沢清作品で著名な芦澤明子氏が撮影監督を務めており、来月の東京国際映画祭で日本初上映される予定です。時として過激で難解な描写も厭わないエドウィン監督やカミラ監督の上記作品がインドネシア国内で上映されるか、今のところ予断を許しませんが、コロナ禍以前と違い、インターネットでの動画配信が当たり前になった現在ならば、もはやシネコンでの公開に拘る必要もないのかもしれません。とは言え、敢えて16mフィルムでの撮影を選択したアナログ派のエドウィン監督が映画館での上映を望んでないとも思えないので、今はただコロナ禍で大打撃を受けたインドネシア映画産業が興行面からも支援を受けられることを願うのみです。横山さんは映画館が再開されてからもう何か観られましたか?
近所のシネコン上映作品(2021年10月1日、轟撮影)
さて、前回第27信では、恋愛ものと宗教ものの結合とも言える異宗教婚ものを中心に『愛の章句』(Ayat-Ayat Cinta)、『チナ、チンタ』(Cin(T)a)などの作品を論じてみました。それに対して、横山さんは第28信で、『愛の章句』での一夫多妻の描写は通常あり得ない理想の姿であり、だからこそ美しいと述べられました。『愛の章句』についての私の評価は前回述べたとおりで、同作はイスラーム風味のメロドラマというものです。イスラームの教義も一夫多妻も物語を動かすための方便として利用されているだけであって、体裁こそ「ダッワもの」、イスラーム宣教目的の映画ですが、その内実はメロドラマらしい荒唐無稽さと感情過多な演技に満ち溢れている物語です。
野蛮で粗野なエジプト人たちと誠実正直一本槍の主人公ファーリが対比されることでインドネシア人観客のナショナリズムがくすぐられ、インドで撮影した風景をエジプト現地のように見せながら、俳優には時々アラビア語を喋らせながらも主要な台詞はエジプト人であっても流暢な(?)インドネシア語を使わせてスムーズな説話行為と異国情緒のバランスをとり、状況に流されるだけでひたすら待ちの姿勢を崩さない草食系主人公とは反対に、自ら行動する女性たちがこれでもかと感情を露わにして観客の同情を誘うと同時に紅涙もしっかり絞りとり、しかも最後はエジプト人の女性コプト教徒をインドネシア人の男性信者がイスラームに改宗させるという、実際にエジプト人が本作を観ればあまりの無神経さに怒り狂うのではないかと懸念されるほどの結末をヌケヌケと映像化したのが『愛の章句』という一大メロドラマ映画にほかなりません。要はツッコミどころ満載ということです。
しかし、「美しい」物語のためならどんな設定も許されるし、若死にでも改宗でも何でもやるのがメロドラマのセオリーでもある以上、むしろ上記のようにツッコミをしながら見ることこそが、本作の正しい鑑賞方法なのではないでしょうか。そのような立場から見ると、本作を元に一夫多妻の是非云々を大真面目に論じる人たちはいささか野暮すぎるというか、なにかズレているなあという感想を抱かざるをえません。泣くにせよ、呆れるにせよ、ツッコむにせよ、虚構の物語が内包する快楽に身を任せればいいのに・・・。
こんな感想を私が持つのは、カルチュラル・スタディーズやメディア研究で著名なインドネシア人学者アリエル・ヘルヤント(Ariel Heryanto)氏の著作“Identitas dan Kenikmatan”を読んだことが関係しています。同書の第3章では、スハルト政権崩壊以降のインドネシア映画界において、制作者自身が予想していなかった形で『愛の章句』がなぜあれほどの大ヒットになったのか、監督や原作者へのインタビューを元に詳細に分析されていてとても参考になります。興味深いのは、原作者のハビブラフマン・エル・シラージ(H. Habiburrahman El Shirazy)が同作のキャスティングや脚本に公開前から非常に不満を抱き、大ヒットしたにも拘わらず映画を大っぴらに批判、その後、別作品『愛が祝福されるとき』二部作(Ketika Cinta Bertasbih)の映画化では自ら主導権を握ってエジプト現地ロケまでして同作を制作したという顛末です。非ムスリムやそれほど敬虔でもないムスリム観客からすれば、過剰なほどに宗教的な内容に見えるかもしれない『愛の章句』ですが、原作者にとっては全くイスラーム宣教の目的に適ってないという不満があったようです。
ところが、本作は一夫多妻を肯定的に捉えているのではないかという批判も一方では根強くありました。そのためハヌン監督は次作『ターバンを巻いた女性』(Perempuan Berkalung Sorban)において、男尊女卑の価値観をもつ父親や兄弟の横暴ぶりを強調し、さらにはセックスのことしか考えてないクズ男を主人公アニサの最初の夫に設定しました。男社会の論理に抗うアニサの物語を非常にステレオタイプな形で図式的に語ることで、自分は一夫多妻に賛成の立場ではないし、女性たちの苦労もちゃんと理解していますよ、とハヌン監督は自分の立場を弁明したのでした。
いやはや、同じ作品を観ているのにどうしてこうも解釈が正反対になるのか、不思議と言えば不思議なことです。実のところ、私や横山さんを含め、誰しも映画そのものに正面から向き合って無心で観ていない、自分の観たいものをめいめい勝手に観ている、あるいは観たつもりになっている、それが実態なのかもしれません。映画批評は簡単なようで難しくもあり、と同時にだからこそ面白いとも言えますね。
なお、『愛の章句』程度のてんこ盛り、やり過ぎ感で呆然としているようでは、同作以降次々に制作された「イスラーム恋愛もの」を論じることは到底できないのがインドネシア映画の奥深さでもあります。今回はそれらの作品については詳しく触れませんが、シリーズ第3作まで作られた『望まれざる天国』(Surga yang Tak Dirindukan)は、『愛の章句』の同工異曲のように見えて、セルフパロディが入っていたり、自立したムスリマ女性像を提示したりするなど、なかなか興味深い作品だったので、いずれ別稿で論じられればと思います。
『望まれざる天国』(Surga yang Tak Dirindukan)。filmindonesia.or.idより。主演のフェディ・ヌリルは典型的な草食系男子。その優しさ故に(またもや)一夫多妻を実行する羽目に。
日本人が考える恋愛ドラマとは違う価値観の提示や物語の展開は、未知の観客に紹介する意義があると思いますが、横山さんはそうした作品を鑑賞済みでしょうか。本稿文末の参考文献に挙げた山本博之さんの論文で紹介されている一連のイスラーム恋愛もののなかですでに観たことのある作品があるなら、感想を後日教えていただければ幸いです。
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さて、今回紹介したいのはダッワものでも異宗教婚ものでもなく、神への信仰と神父への愛、どちらを選択するかで揺れ動くカトリック修道女を主人公とした作品『シスター・マリアム 許されぬ恋』(Ave Maryam)です。ムスリムが多数派のインドネシアでは他宗教の信徒を主人公にした作品は稀で、それだけでも本作を紹介する意義はありますし、主演が贔屓の女優マウディ・クスナエディ(Maudy Kusnaria Koesnaedi)というのも理由の一つです。
『シスター・マリアム 許されぬ恋』(Ave Maryam)の一場面。imdb.comより引用。インドネシアではネットフリックスで配信中。
1990年代から続く長寿テレビドラマシリーズ『ドゥル』でのヒロイン役で有名な彼女ですが、映画では第9信で紹介した『ガルーダを胸に』2部作で主人公の母親役、2013年公開の大作『スカルノ 独立インドネシア』では初代大統領スカルノの知られざる糟糠の妻インギットを演じました。いずれも助演という形だったので、タイトルロールでトップに挙がる主演作は本作が初めてとなりました。ムスリマである彼女にとってカトリック修道女を演じることには若干の逡巡もあったようですが、見事にエルタント・ロビー・スディスカム監督の期待に応えた演技を本作では見せてくれます。目が大きくて長い眉毛が印象的な彼女の代表作と言っていいでしょう。
横山さんは本作を「終始淡々とした流れのなかにも終盤に向けてインパクトを感じさせる作品」と評されていますが、私の感想は少し違います。たしかに、台詞が少ない静かな描写が全体のほとんどを占め、後半の「タブー」を犯す場面をピークにゆるやかに終幕へと至る、全体的には緩やかなペースの作品です。が、一見信仰心を問う体裁を取りながらも、実際には抑圧的なカトリック教会の在り方に若干の疑問を投げかけ、且つインドネシア映画では珍しく女性の欲望を赤裸々に描いた「過激な」作品ではないかというのが現時点での私の評価です。
敬虔なカトリック修道女の平平凡凡な日常生活描写がほとんどを占める本作のどこが「過激」なのか、と訝しく思われるかもしれないので、以下具体的に描写を挙げ、さらにオリジナル版からカットされた場面を想像しながら説明してみます。
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