よりどりインドネシア

2021年08月23日号 vol.100

インドネシアに居留するアフガニスタン難民は今(松井和久)

2021年09月01日 00:02 by Matsui-Glocal

アフガニスタン情勢は、アメリカ軍の撤退を受けて、2021年8月14日夜、反政府勢力ターリバーンが首都カブールを陥落させて全土を掌握し、ガニ大統領が国外脱出する、という急展開を見せました。

この事態に、インドネシアは空軍機をカブールへ飛ばし、外交官などインドネシア人26人、インドネシア人の配偶者などアフガニスタン2人、フィリピン人5人の計33人を連れて8月21日にジャカルタへ戻りました。フィリピン人5人の救出はフィリピン政府からの要請に基づく措置でした。カブールの大使館機能は、隣国パキスタンの首都イスラマバードから行うとしています。

空軍機でアフガニスタンを脱出して帰国したインドネシア関係者。(出所)https://www.bbc.com/indonesia/indonesia-58259808

冷戦時代から紛争の続くアフガニスタンは、複雑な部族間の対立構造もあり、2018年時点で少なくとも全人口の1割に当たる270万人以上が国を離れ、難民として全世界へ逃れています。過去には最大680万人の難民が発生しました。

実は、インドネシアにもアフガニスタン難民がいることをご存じでしょうか。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2019年時点でインドネシアには7,000~8,000人のアフガニスタン難民が居留しています。アフガニスタン難民は、インドネシアに居留する難民1万3459人の6割近くを占めています。アフガニスタン以外では、ソマリア、ロヒンギャ、イラク、ナイジェリア、スリランカなど43ヵ国からの難民がインドネシアに居留しています。

国連は1951年に「難民の地位に関する条約」、いわゆる難民条約を定め、日本を含む146ヵ国が批准し、難民受入国となっています。実は、インドネシアは難民条約を現在まで批准していません。すなわち、インドネシアは難民受入国ではありません。では、なぜ、受入国でないインドネシアに1万人以上の難民が居留しているのでしょうか。

それは、インドネシアが、受入国へ向かう難民の経由地となっているからです。難民はインドネシアに一時滞在した後、オーストラリアやアメリカなどの受入国へ移っていくことが想定されているのです。しかし、経由地であるインドネシアから最終受入国への移動はなかなか進んでいません。その結果、インドネシアに難民が滞留し、なかには7~10年もインドネシアに留まったままの難民も存在します。

インドネシアに居留する難民の保護や最終受入国への送出しへの支援は、UNHCRと国連移住機関(IMO)がインドネシア政府と協力しながら進めています。インドネシアは1970年代以降、ベトナム戦争後に旧・南ベトナムからのボートピープルとも称される難民に対して、バタム島近くのガラン島などに収容所を設けて受け入れてきたのですが、その際にUNHCRやIMOなどと協力してきた経験があります。ガラン島のベトナム難民収容所は1979~1996年に設置され、同期間にのべ25万人が収容されました。

今回は、インドネシアに居留するアフガニスタン難民について、インドネシアへたどり着いた経緯、インドネシアでの難民としての暮らし、インドネシアの地元住民の反応、居留期間が長期化する理由、などについて、具体的なアフガニスタン難民のケースを例にしながらみていきます。

201511月にジャカルタに着いたファルザドのケース

アフガニスタンからの難民の一人ファルザドの例を見てみましょう。彼は違法状態のまま、インドネシアへやってきました。

ファルザドの一族は、アフガニスタンの人口の9%を占める少数派のハザラ族で、ターリバーンからの迫害を受け続けてきました。ハザラ族の多くはイスラーム教シーア派を信仰しています。ターリバーン以外にも、アル・カーイダやイスラーム国やNATOなどによる紛争が絶えず、安心して学校に通ったり仕事をしたりする環境ではありませんでした。アフガニスタンに居たのでは自分の未来はないと思い、2人の妹と両親を残して、国外へ脱出したのでした。そして、難民として受け入れてくれた国へ、両親と妹を呼び寄せたいと思ったのでした。父親は財産を売って資金を捻出し、彼の国外脱出を支えました。

彼らがアフガニスタンを脱出するにあたっては、それを助ける密航仲介者のネットワークがあります。出発点はカブールでした。カブールから民間機に乗ってインドのニューデリーへ飛びました。パスポートも航空チケットもその他書類も何も持っていませんでしたが、すべては密航仲介者が用意していました。

ニューデリーに着くと、別の密航仲介者からの連絡を待ちました。1~2週間経って、クアラルンプールへ向かうとの連絡があり、指示に従ってクアラルンプールへ飛び、さらにジャカルタへ飛びました。ジャカルタに着くと、すぐにUNHCRへ出向いて国内難民登録し、登録カードを入手しました。ファルザドがジャカルタに着いたのは2015年11月、まだ17歳でした。

ファルザドはジャカルタで、同郷で同じハザラ族の男性と知り合いになりました。この男性は2015年時点ですでにインドネシア滞在歴が6年になっていましたが、いつ受入国へ行けるのか、なぜ行けないのか、分かりませんでした。すべてはUNHCRの決定次第でした。

ファルザは最初、持参した資金でボゴールに部屋を借り、節約に節約を重ねて生活していました。飲食をできるだけ控えました。なぜなら、トイレに行かなければならなくなるからです。トイレは有料でした。

そして、とうとう資金は底をつきました。2018年初め、彼はボゴールを離れ、多くのアフガニスタン難民がテント生活を送っている西ジャカルタのカリデレス(Kalideres)へ移りました。

カリデレスの歩道に立ち並ぶ難民のテント。(出所)https://www.liputan6.com/news/read/4333748/ratusan-pengungsi-asing-di-kalideres-berunjuk-rasa-menuntut-keadilan

しかし、カリデレスでの生活は長続きせず、400人のアフガニスタン難民とともに、中ジャカルタのクボンシリ通り(Jalan Kebon Sirih)にあるUNHCRオフィス前の歩道へ移り、新たなテント生活に入りました。受入国を早く決めないUNHCRへの抗議の意味が込められていました。

それでも、ファルザドにとって、安心して食事のできるジャカルタでの生活は、アフガニスタンの故郷での生活に比べればありがたいものでした。アフガニスタンでは、明日生きているかどうかも分からない毎日だったからです。そして実際そうでした。2019年7月7日、故郷の村でターリバーンによる自動車爆弾テロがあり、子どもたちを含む14人が死亡しました。ファルザドの出自でもあるハザラ族の殲滅を狙ったジェノサイドで、これまでに何度も起こってきたことでもありました。この事件に先立つ2018年、ファルザドはカリデレスのテントで、財産を失ってまで彼の国外脱出を助けた最愛の父が亡くなったという連絡を受けていました。

2019年7月11日、クボンシリ通りでテント生活を送っていたアフガニスタン難民は、陸軍西ジャカルタ軍管区(Kodim)跡地へ移されることになりましたが、移転予定先では、一部の地元住民による反対運動が起こっていました。

(以下に続く)

  • インドネシア人の恋人とめぐり合ったアリのケース
  • 難民に対するインドネシア側の本音
  • 難民の受入国が早急に決まらない理由
  • 袋小路のアフガニスタン難民問題へのかすかな光
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