よりどりインドネシア

2021年08月23日号 vol.100

おとぎ話の闇と引力(太田りべか)

2021年09月01日 00:06 by Matsui-Glocal
2021年09月01日 00:06 by Matsui-Glocal

国際交流基金アジアセンターで、アジア文芸プロジェクトが実施される。アジア各国の「若手作家にコロナ禍のアジアの現在をテーマにショートストーリー・随筆を書き下ろしていただくとともに、「読む」という行為にまつわるさまざまな現地の文芸事情をオンラインで発信していく」とのことだ。その中の“「読む」プロジェクト”の一環として、小説 “Cantik Itu Luka”の著者であるエカ・クルニアワン(Eka Kurniawan)氏と対談させていただけることになった。

この機会に、エカ・クルニアワン氏の近作の中から “Sumur”(『井戸』)と “O”(『オー』)の2作をここで紹介したいと思う。

“Sumur”(『井戸』)

“Sumur”(『井戸』)は、アメリカの作家・編集者ジョン・フリーマンが編集した気候変動をテーマとするアンソロジー “Tales of Two Planets” に寄稿された短編小説だ。このアンソロジーには世界各国から36人の作家たちが短編小説、詩、随筆などを寄稿している。日本からは村田沙耶香の『生存』の英訳が収録されている。

ジョン・フリーマンはこのアンソロジーの前書きに、「これは政策や統計についての本ではない。われわれは事実の海を泳いでいるが、事実はそれが物語の一部となるまでは、事実の深奥を、事実の力を完全に掴み取れるわけではない」と書いている。フィクション、ノンフィクション合わせて36のナラティブでもって、現在地球で起きている気候変動という現象を立体的に浮かび上がらせようという試みのもとに編まれたアンソロジーだ。

全編読んだわけではないが、テーマがテーマだけに、読んで気分が明るくなるようなものは見つかりそうにない。たとえわずかでも希望を見出せそうなのは、アイスランドの作家アンドリ・スナイル・マグナソンによるエッセイ “N64 35.378, W16 44.691”(『北緯64度35分37.8秒、西経16度44分69.1秒』)の末尾の、「私が目にしている自然は、これまで見たことのないものに変貌しようとしている。けれども、もちろん、私の目には破壊と映るものが、最終的には私たちの子孫にとって愛し慈しむべきものとなっていることを願っている」という部分ぐらいだろうか。

エカ・クルニアワンの『井戸』も鬱々とした物語である。

トイブは幼なじみのシティと子どものころから心を通わせ合っていた。ふたりの住む村には豊かな泉があったが、雨が降らなくなって水量が減り、やがて村人たちの間で水争いが起きて、トイブの父がシティの父を殺してしまう。ふたりの家族の間の交流は途絶えた。

ついに泉は涸れ、村人たちは丘ひとつ向こうにある唯一まだ水の出る井戸まで、朝夕ごとに水を汲みに行かなければならなくなった。男手を失くしたシティの家では、水を汲みに行くのはシティの仕事だった。トイブもそれを知っていたが、わざと水汲みに行く時間をずらして、シティと顔を合わさないようにしていた。

4年8ヵ月を刑務所で過ごしたトイブの父が、刑期を終えて帰ってきた。服役中に機械修理の技術を身につけ、刑務所の内外から修理の注文を受けるようになっていた父は、そうやって貯めた金を全額シティの家族に渡してほしいと言ってトイブに託す。トイブはシティが水汲みに行く時間に井戸へ行き、ふたりは数年ぶりに顔を合わせ、言葉を交わした。けれども、ほどなくシティは仕事に就くため町へ行ってしまう。

乾季がいつまでも続いて作物は育たず、家畜に食べさせる草にも事欠くようになった。トイブの父は、トイブを連れて町へ行き、知り合いが経営する機械修理工場で働くことに決める。トイブと父が町へ出発するころになって、突然雨が降り出した。たいへんな豪雨となり、川は急激に増水して、町を目指して吊り橋を渡っていたトイブの父を呑み込んでしまった。トイブはなんとか岸にたどり着いて村へ戻った。

シティは町で、トイブは村でそれぞれ結婚して家庭を持ったが、どちらの結婚生活も満たされたものとはいえなかった。やがてシティが体の不自由になった夫を連れて村へ戻ってくる。トイブとシティは、朝夕に井戸で顔を合わせることだけを唯一のささやかな楽しみとして日々を送るようになった。けれども、そんなふたりのために、もちろん幸福な結末は用意されていない。

苦難のただ中にあっても、エカ・クルニアワンの物語の中の人々はなにかにすがるでもなく、抗議の声をあげるでもなく、権利を主張するでもなく、ただ黙々と苦難を受け入れて同化していく。それが現実だ。

エカ・クルニアワンがどれほどおとぎ話を語っても、その陰に現実がうっそりと顔を出す。それがエカ・クルニアワンの物語る世界の引力となっているのではないかと思う。

エカ・クルニアワン著 “Sumur”。小さな本で、表紙と同じイラスト付きの封筒に入っている。増刷はしない限定版とのこと。

(以下に続く)

  • "O"(『オー』)
  • デポックの化猪騒ぎと蝙蝠沼
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