よりどりインドネシア

2021年07月22日号 vol.98

フェミニズムで読み解くチャロン・アラン伝説(太田りべか)

2021年07月22日 23:24 by Matsui-Glocal
2021年07月22日 23:24 by Matsui-Glocal

文学者・詩人であり哲学者でもあったトゥティ・ヘラティ(Toeti Heraty)が、2021年6月13日に亡くなった。87歳だった。

トゥティ・ヘラティはまたインドネシアのフェミニズムの「第一世代」の代表格ともみなされており、1996年に創刊されたインドネシア初のフェミニズム雑誌 “Jurnal Perempuan” の創設者のひとりでもある。

トゥティ・ヘラティの代表作“Calon Arang: Kisah Perempuan Korban Patriarki”(『チャロン・アラン — 家父長制の犠牲となった女の物語』)は、バリと東ジャワに伝わるチャロン・アラン伝説をフェミニズムの視点から読み解く散文詩だ。バリでは聖獣バロンと戦う魔女ランダとして知られるチャロン・アランは、伝説の中では恐ろしい黒魔術を駆使する典型的な悪者として描かれているが、トゥティ・ヘラティはそこにどのようにフェミニズムの視点を持ち込んでいるのだろうか?

Toeti Heraty 著 “Calon Arang: Kisah Perempuan Korban Patriarki”

●おとぎ話の中のチャロン・アラン

トゥティ・ヘラティのテクストを見ていく前に、おとぎ話として伝わるチャロン・アラン伝説を見てみよう。ヌサンタラのおとぎ話を集めた “Cerita Anak Seribu Pulau”に収録されているチャロン・アラン物語は以下のような筋書きだ。

昔、エルランガ王が治めるダハ国のギラーという村に、悪名高い寡婦チャロン・アランがいた。チャロン・アランは黒魔術を使ってさまざまな悪事を働き、人々から恐れられていた。ラトゥナ・マンガリという名の美しい一人娘がいたが、年頃になっても求婚してくる男はひとりもいなかった。チャロン・アランが美男で裕福な村の若者たちに娘との結婚話を持ちかけても、皆チャロン・アランを恐れるあまり、その話を受ける者はなかった。

チャロン・アランは腹を立て、村人たちを呪って、大洪水を引き起こして村人たちを苦しめることを誓った。そうして弟子たちに少女をひとり拐ってこさせ、残忍な破壊の女神ドゥルガにその少女を贄として捧げ、村人たちへの復讐を遂げさせてくれるよう祈った。

ほどなく村は洪水に襲われ、その水に触れた者はだれもが病になって、たちまち死んでしまった。村には病が蔓延し、止まるところを知らなかった。

その話を耳にしたエルランガ王は、ダハ国の兵をギラー村に送り込んだが、チャロン・アランの魔術と弟子たちの反撃に遭って、あえなく撤退した。

困り果てた王のもとに名高い賢者バラダ師とバフラ師がやってきて、「チャロン・アランは娘に求婚者がいないことに腹を立てて災厄をもたらしたのだから、愛の力をもってそれに対してはどうか」と提案した。そうしてバフラ師がラトゥナ・マンガリに求婚することになった。チャロン・アランは大喜びでバフラ師を娘婿として迎えた。

あるとき、バフラ師は甘言を弄して妻のラトゥナ・マンガリから、チャロン・アランの魔力の源が一冊の経典にあることを聞き出す。チャロン・アランはその経典を肌身離さず身に着けているという。

ある夜、バフラ師はチャロン・アランが眠っている間にこっそり部屋に忍びこみ、経典を盗み出してバラダ師に届けた。目を覚まして経典が盗まれたことを知ってチャロン・アランは怒り狂うが、経典を使ったバラダ師の魔力の前には手も足も出ず、敗れて灰となり、南の海へ吹き飛ばされてしまった。そうしてギラー村には平和が戻った。

●プラムディヤの『チャロン・アラン物語』

チャロン・アラン伝説は、11世紀にジャワ東部にカフリパン王国を建国したエルランガ王(アイルランガとも呼ばれる)の時代の話とされている。1540年に書かれたテクストがあるといわれ、それに基づくテクストが後にオランダ語に翻訳されて1926年にオランダで発行された学術誌に掲載されたらしい。おそらくはそれをもとにしてこの伝説を語り直したのが、プラムディヤ・アナンタ・トゥールによる “Cerita Calon Arang”(『チャロン・アラン物語』)である。

Pramoedya Ananta Toer 著 “Cerita Calon Arang”

プラムディヤの描くチャロン・アラン物語は、上述のおとぎ話と大筋は変わらないが、チャロン・アランが村人たちへの復讐のために黒魔術を使って引き起こした災厄は洪水ではなく、疫病の蔓延だった。また、チャロン・アランと弟子たちがドゥルガ神を呼び出すために執り行う儀式で、弟子たちが人の血で髪を洗って躍り狂う様子なども詳細に描かれている。

ほかに違う点は、チャロン・アランの経典をこっそり盗み出したのはバフラではなく、バフラにそうするように頼まれたラトゥナ・マンガリだったことだ。そしてバフラはその経典を師のバラダに届け、それを読んでマントラを会得したバラダは、経典を妻に返すようにバフラに告げる。一方、チャロン・アランは経典がなくなったことに気づいていない様子だ。

チャロン・アランの経典を読んで新たな力を身につけたバラダは、チャロン・アランを退治するためにギラー村へ向かう途上、あちこちへ立ち寄って、疫病で倒れた人々を癒し、まだ体が腐っていなければ死人も蘇らせてやった。やがてギラー村の近くまで来たとき、チャロン・アランの弟子がふたりバラダのもとへやって来て、改心したいので自分たちの心を浄めてほしいと頼む。バラダはその願いをいったん保留して、チャロン・アランと対峙する。

それに先立ってドゥルガ神から危険が迫っていると警告を受けていたチャロン・アランは、バラダの前に跪いて、自分の罪を浄めてほしいと頼む。だが、チャロン・アランの罪はあまりに重いのでそれはできないと言って、バラダは拒絶する。チャロン・アランは繰り返しなおも頼むが、やはり受け入れられず、とうとう怒りを発して目や口から火を噴き、バラダを焼き殺そうとする。バラダは少しも動じず、「チャロン・アランよ、そなたは死なねばならぬ」という一言のもとにチャロン・アランを殺してしまった。

ところが、魂が浄化されないまま死んだのでは何にもならないと判断したバラダは、チャロン・アランを生き返らせ、教えを説いて改心させ、魂を浄化したうえで再び殺した。チャロン・アランのふたりの弟子も同時に教えを受けて心が浄められ、以後はバラダの忠実な弟子となった。

プラムディヤ版では、骨子を成すチャロン・アランの悪行とバラダとの対決の物語の中に、バラダの娘ウェダワティの物語と、チャロン・アラン死後の後日談が挿入されている。

バラダの娘ウェダワティは美しく賢く心優しい娘だったが、母を亡くした後、継母にいじめられて家を出る。母の墓のそばを離れようとしない娘を見かねて、バラダは村人たちに墓地のそばに小さな家を建ててもらい、ウェダワティをそこに住まわせることにした。ウェダワティは母の墓を守りながら修行者のように暮らし、花を育てて家の前に見事な花園を作り上げた。その評判を聞いて多くの人々がこっそり花園を見に訪れたが、ウェダワティの気高い姿を畏れて、花園の中に足を踏み入れる者はひとりもいなかった。

一方、エルランガ王は後継問題に悩んでいた。王にはふたりの王子があり、どちらかに王位を譲れば、必ずや争いが起きると予想できたからだ。そこで下の王子をバリの王位に就けることを思いついた王は、チャロン・アラン退治を成し遂げたバラダをバリに遣わして交渉させることにした。

バラダは旅を続け、バリ島の対岸に至ると、舟がなかったため、ナンカ(ジャックフルーツ)の葉を取って呪文を唱え、それに乗って海を渡った。バリで名高いクトゥラン師に会ってエルランガ王の意向を伝えたが、クトゥラン師の孫がすでにバリの王位に就いているからといってにべもなく断られてしまう。腹を立てたバラダは挨拶もせずにその場を去るが、ジャワへ戻ろうとして再びナンカの葉に乗ったところ、何度呪文を唱えても沈んでしまう。そこで己の過ちを悟り、クトゥランのもとへ戻って詫びを入れ、挨拶をしてその場を辞した。そうして無事ジャワへ戻ることができた。

バラダはバリでの経緯を王に告げ、ダハ国をクディリ国とジェンガラ国のふたつに分けて、ふたりの王子をそれぞれの王位に就けることを提案する。王も同意し、それ以後国はふたつに分かれた。

役目を終えたバラダは、娘のウェダワティを伴ってどこへともなく姿を消した。

(以下に続く)

  • トゥティ・ヘラティのチャロン・アラン

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