よりどりインドネシア

2021年07月08日号 vol.97

いんどねしあ風土記(29):大河ムシ川のほとりで・パレンバン今昔 ~南スマトラ州パレンバン~(横山裕一)

2021年07月08日 22:02 by Matsui-Glocal
2021年07月08日 22:02 by Matsui-Glocal

7世紀半ば以降、マラッカ海峡を支配し海洋交易国として繁栄したスリウィジャヤ王国の王都だったとされている南スマトラ州の州都パレンバン。海洋交易で重要な役割を果たした大河ムシ川流域にあるパレンバンは、2018年に開催されたアジア大会の会場の一つに選ばれたのを契機に近代開発がさらに進められている。華人の影響も強く受けたスマトラ島の古都、パレンバンの今昔。

●近代開発進むパレンバン

パレンバンの空の玄関口はスルタン・マフムド・バダルディン2世国際空港である。19世紀前半のパレンバン王国末期にイギリスやオランダ相手に戦った王の名前が冠されている。到着ロビーを出ると、LRT駅への案内看板が目に入る。

2018年7月下旬に開通した新交通システム、LRT(Lintasan Rel Terpadu / Light Rail Transit)はインドネシア最初のLRTで、空港からパレンバン中心部を通り、ムシ川を渡って総合運動競技場まで13駅を結んでいる。アジア大会の開催地の一つに選ばれたのに伴っての整備である。

パレンバンのLRT車両

高層ビルが林立するLRT沿線の市街中心部

LRTの速度は予想以上に遅いが、空港からパレンバン中心部までは約30分、小一時間かかる自動車よりも時間が読める。さらに空港からの運賃は100円以下。2020年のコロナ禍前の段階で、1日の利用者は平均1万人にのぼる。LRTに客を奪われ、空港で客待ちするバイクタクシーの運転手が悔し紛れか「こっちのほうが安く早くて安全だぜ」とうそぶいていた気持ちも理解できる。

市街地に入るとLRT沿いに高級ショッピングモールや高層ホテルなどの建物が見える。人口約167万人(2020年中央統計庁調べ)とスマトラ島第二の都市として開発が進んでいることがうかがえる。市街地中心部を抜けたLRTはムシ川を渡る。近代パレンバンのシンボル、アンペラ橋に沿って川を渡るLRTの姿は観光都市でもあるパレンバンの新たな光景である。

アンペラ橋へ向けて走行するLRT

●アンペラ橋物語

パレンバンのシンボル・アンペラ橋

パレンバン中心部の南側を東西に流れる大河・ムシ川は全長約750キロ、インドネシアで5番目に長い河川である。パレンバンでの川幅は250メートル前後にも及ぶ。古来より船でしか渡れなかったムシ川に橋を架ける構想はオランダ植民地時代からあったが計画止まりに終わったという。実現したのはインドネシア独立後の1960年代。日本の戦後賠償と技術協力で1962年に着工し、1965年に完成した。

全長1177メートルの新橋は当時、東南アジア最長の橋となった。橋の両側の塔には約5メートルの大時計が設置され、橋のアイコンにもなっている。当初は大型船舶が通れるように橋梁中央部を引き上げる可動式だったが、橋を通行する交通量の増加に伴い、1970年以降は橋梁の稼働は行われなくなった。

かつて塔間の橋梁部分が上下可動だった

アンペラ橋の大時計

橋の開通式典は1965年9月30日、当時陸軍司令官でもあったアフマド・ヤニ中将によって執り行われた。ヤニ中将は同日ジャカルタに戻ったが、翌未明、クーデター未遂事件といわれる9・30事件に巻き込まれ、殺害される。新架橋の開通が同氏の最後の仕事になってしまった。

この9・30事件はパレンバンの新しい橋にも影響を与えている。この橋は完成当初、「ブン・カルノ橋」と名付けられていた。「ブン・カルノ」はスカルノ初代大統領の愛称で、橋の建設に協力した大統領を讃えてのものだった。しかし、9・30事件を契機にスカルノ大統領の権力は弱まり、後の第2代大統領となるスハルト当時戦略予備軍司令官が次第に権力を握るようになると、反共運動とともに、反スカルノの風潮も高まった。このため開通翌年の1966年、橋の名前は「ブン・カルノ」から「アンペラ」へと変更された。スカルノ大統領自らが当時の風潮を鑑みて、名前を変更したという説もある。

「アンペラ」(Ampera)とは、直訳すれば「国民の苦難を委託する」(Amanat Penderitaan Rakyat)の略語で、アンペラ橋への名称変更翌年の1967年、スカルノ大統領在職ながら実権を握ったスハルトが発足させた内閣の名称でもある。アンペラ橋はまさにインドネシアの時代の転換期を如実に表す名称を持つ橋となった。

アンペラ橋の開通で、大河で分断されていたパレンバンは念願の陸路移動が可能となり、経済発展も進んだ。偶然ではあるが、着工された1962年はジャカルタでアジア大会が開催された年で、その約半世紀後の2018年、パレンバンがアジア大会の第二会場になったことでアンペラ橋脇にLRTも通って、鉄道でもムシ川を横断できるようになった。

都市の発展の象徴であり、観光名所としてもパレンバンのシンボルとなったアンペラ橋は現在赤色だが、完成当初は灰色だったという。その後1992年に黄色に塗り替えられ、2002年、現在の赤色になっている。変更の理由は不明だが、偶然にも塗り替えられた色は、それぞれ当時の政権与党のシンボルカラーでもあり、興味深い。

●ムシ川河畔で繰り広げられた歴史

地図(上)の赤印部分がパレンバン(Google Mapより)

パレンバンは大河ムシ川の河口から50キロ余りにわたるデルタ地帯の上流にあり、7世紀半ばから14世紀にかけて栄えたスリウィジャヤ王国の王都だったとされている。王国はスマトラ島東岸とインドシナ半島西岸のマラッカ海峡沿岸まで影響を及ぼす広大な海洋交易国で、遠くはインドや中国とも交易が盛んだったとされている。物資をはじめ他国文化などのほとんどがムシ川を通って王都パレンバンに届けられた。パレンバンにとってムシ川はまさに海路へ、世界へ通じる扉でもあった。

中国・唐の僧侶、義浄がインドへ行くまでの東南アジア各国の様子を記した『南海寄帰内法伝』によると、671年に立ち寄ったパレンバンでは、王国の庇護のもと千人以上の僧侶や学者が仏門研究に励んでいたという。王都パレンバンは当時交易だけでなく、仏教の中心地の一つでもある国際都市だった。

中国人がパレンバンに多く移住し始めたのがスリウィジャヤ王国崩壊期の14世紀後半から、17世紀半ばに建国されたパレンバン王国の時代にかけてだといわれている。パレンバン王国は中国人をはじめ外国からの渡来人の居住地をムシ川の南岸沿いに限定した。王国の宮殿や王都の中心街とは対岸にあたり、内陸部が土着のパレンバン人の居住区と区分けする政策がとられた。

居住区をムシ川南岸に限定されたとはいえ、外国人定住者、とくに華人にとっては船舶を利用した交易や商業には適していたため、経済を担う中心にもなっていく。その一方で、時の変遷とともにパレンパン人との婚姻も進み、華人の土着化も進んでいった。

かつての渡来人居住区の名残が見られるムシ川南岸

その名残が現在でも見られ、多くの華人系の住居や寺院、アラブ集落などがパレンバンのムシ川南流域に位置している。河川に張り出すように設けられた高床に建つモスクや住宅などがそれである。

(以下に続く)

  • 「キャプテン宮殿」オランダ植民地時代の華人集落
  • 現代に残る華人文化
  • パレンバン近代化の光と影
  • キャプテン宮殿の前で
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