よりどりインドネシア

2021年06月08日号 vol.95

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第21信:ナショナリズム、グローバリズム、 リージョナリズム、そしてコロナ禍(轟英明)

2021年06月08日 00:40 by Matsui-Glocal

横山裕一様

無事ラマダン(断食月)も終わり、「日常」が戻ってきましたが、コロナ禍は今も変わらず続くというわけで、なんとも表現の難しい今日この頃ですが、横山さんはいかがお過ごしでしょうか。前回第20信で横山さんが滞在されたチアンジュールのカフェにはいずれ私も行ってみたいですが、チカランからの距離を考慮すると、一泊してのんびりしたく、実現はまだまだ先のことになりそうです。

さて、本題に入る前に、先日久しぶりに映画館で観たインドネシア映画について短く書いておこうと思います。33年ぶりのリバイバル上映『チュッ・ニャ・ディン』(Tjoet Nja’ Dhien)のことです。大学生の長女と一緒にブカシの映画館で観てきました。デジタル・リマスターという触れ込みでしたが、私たちが観た映画館だけなのか、全然画質が鮮明になってない箇所が散見されて、その点は非常に残念でした。ただ、私にとっては初めて日本の劇場で観たインドネシア映画であり、一言では語れないほどの深い思い入れがあったため、果たして初見時と同様の感想となるか、正直自分にもわからなかったのですが、2021年の現在においてもシンプルで力強い傑作であることを改めて認識できたのは今更ながらの収穫でした。映像音響技術がどれだけ進歩しても古びることのない、映画でしか表現できない何かが、本作には宿っていることを確信した次第です。

本作については、以前、自分のブログ(映画評『チュッ・ニャ・ディン』 https://ahmadhito2017.blogspot.com/2017/08/1.html)に初見時の「衝撃」について書きましたが、まだまだ十分に論じられてない点がありますので、いずれ別稿で再び取り上げたいと思います。映画そのものよりも、映画の外のこと、具体的にはローカリズムとナショナリズムの関係について書くことになりそうです。チュッ・ニャ・ディンというアチェ人のローカルな英雄がインドネシアの国家英雄として顕彰され映画化されることの意味を、私よりもインドネシアの地方各地を回られている横山さんや松井さんのご意見も拝聴しながら、じっくり考えてみたいと思います。

『チュッ・ニャ・ディン』上映劇場でのポスター(轟撮影)

今回第21信では、第13信から続いてきたテーマ「インドネシア映画における言語選択の政治性」について、ひとまずまとめてみます。ひとまず、としたのは、以前述べたことの繰り返しとなりますが、まだ私自身の調査が不十分、とくにスハルト時代よりも前の作品と検閲の実態について調べきれてない点があるためです。2020年代のインドネシア映画が今後さらに発展していくことに合わせて、今回のまとめも後日更新できればと思っています。

5年後の2026年には誕生から100周年を迎えるインドネシア映画史において、映画内でどんな言語が選択され、どんな内容が語られてきたか、年代ごとの傾向を以下大まかにまとめてみました。

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オランダ植民地時代(19261942年):数年の無声映画の時代を経てトーキーに移行。資料は少ないが、都市部での興行が主体で、多くの都市住民がマレー語(後のインドネシア語)を理解でき、また識字率が低かったことから映画内言語はマレー語が多かった模様。地方語映画の存在は未確認。オランダ植民地政府は検閲制度を設けるものの、植民地での映画振興の意図はなかったらしく、ほぼ放任。人気があったのは現実から遊離した娯楽映画で内容的にインドネシア民族主義との親和性は必ずしも高くなかった。

『月光』(Terang Boelan)1937年の大ヒット作。架空の島サウォバが主な舞台。filmindonesia.or.id より引用。

日本軍政期(19421945年):3年半という短期間ながら、多くの影響をインドネシア社会に残した。映画分野においては、消極的だったオランダとは異なり、日本軍政はプロパガンダの道具として映画を非常に積極的に活用、この時期に初めて映画を見た村落住民は多かった。必然的にインドネシア民族主義を鼓舞する内容だったので、標準インドネシア語の使用も促進され、人材面含め独立後のインドネシア映画の興隆はこの時期に下地が作られた。

独立革命期からスカルノ政権終焉まで(1945~1966年):インドネシア民族主義の高揚とともに、明確に「標準インドネシア語を使ったインドネシア映画」として制作され鑑賞された。地方文化をインドネシアという新興国家の国民文化として昇華する試みが映画においてもおこなわれ、政治的にも国家分裂の危機は回避されたため、地方語映画は生まれず。演劇調の、現実の日常生活の会話からはやや乖離した「標準インドネシア語」を使ったスタイルが確立し、それは国民国家建設を高らかに語る理想主義ともマッチした。経済不振と政治混乱のため、製作本数は一定せず。後のスハルト政権と比較すると、政府による文化統制は必ずしも強かったとは言えないかもしれない。

『三人姉妹』(Tiga Darah)。1956年の大ヒットミュージカルコメディ。filmindonesia.or.id より引用。

スハルト政権時代(19661998年):スカルノ政権以上に強権的だったスハルト政権は文化政策においても国家統一を最優先とし、標準インドネシア語の使用が映画内でも制度化された。順調な経済発展とともに製作本数増加とジャンルの多様化が進むも、荒唐無稽な娯楽映画でも生真面目な文芸映画でも、言語面も内容面も政府に強く統制されていたことが特徴。映画内において「想像の共同体」インドネシアが可視化され、それを全国のインドネシア国民が観ることで、インドネシアという国民国家がさらに強固に構築される回路が作られた。言い換えれば、「我らがインドネシア人(のみ)の世界」がスクリーン上に出現。一方で、地方語や方言や口語の映画内での使用も少ないながらも確認され、ここに後の民主化の萌芽を伺うことも可能。

『インドネシア共産党9月30日運動の裏切り』(Pengkhianatan G-30-S PKI)チラシ。1982年公開。4時間半に及ぶ反共プロパガンダ作品。filmindonesia.or.id より引用。

改革時代以降(19982020年):スハルト政権崩壊後の民主化の波は映画内言語にも押し寄せ、現代口語がテレビドラマでも映画でも使用されることが常態化した。お行儀のよい、あらゆる意味で統制された、品行方正な標準インドネシア語の使用は全般的に後退。検閲の基準は以前よりも緩くなり、とくに使用言語に関する制限はほぼなくなった。その結果、地方語や方言を交えた作品だけでなく、インドネシア語字幕を必要とする全編地方語映画も生まれた。綺麗ごとではすまない、地方住民の本音と実態を語る一手段としての地方語映画が作られる一方、海外市場を意識した英語まじり又は全編英語映画も最近は制作され始めた。また、映画内設定ではあるが、標準インドネシア語がインドネシア国外でも普通に使われる海外ロケ作品も増加中。

『ビューティフル・デイズ』(Ada Apa Dengan Cinta?)2001年公開の青春映画。若者の現代口語をふんだんに使い、「レフォルマシ」改革時代の空気を絶妙に表現。filmindonesia.or.id より引用。

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