よりどりインドネシア

2021年03月07日号 vol.89

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第15信:標準インドネシア語映画VS 地方語映画の攻防(轟英明)

2021年03月08日 03:54 by Matsui-Glocal
2021年03月08日 03:54 by Matsui-Glocal

横山裕一様

コロナウイルス関連ニュースが報じられて早1年、インドネシアでは日本よりも早くワクチン接種が始まったものの、収束への道筋が見えないのは以前とあまり変わっていません。今の時期には毎年恒例の洪水だけでなく、噴火や地震などの自然災害も各地で発生しています。横山さんは取材であちこち行かれることも多いと思われますが、移動にはくれぐれもご注意ください。

さて、第14信で横山さんが紹介してくれた作品について、私からのコメントを何点か返しておこうと思います。

『サラワク』(Salawaku)は、題名からマレーシアのサラワク州が何かしら関係してくるのかと思っていたら、主人公の少年の名前であることがすぐに判明し、肩透かしを食った気分でしたが、そもそもスペルが違う(SalawakuとSarawak)ので、こちらの一方的な思い込みにすぎず、自省しながら見始めました。また、映画のストーリー展開も当初予想していたのとは違いました。

ロードムービーであることは事前に分かっており、マルクの美しい海を背景に話が進み、激しいドラマが途中で起こるのかなと思っていたのですが、物語の中盤以降、画面に映るのは海ではなく緑に覆われた丘陵部、ドラマはロードムービーらしく紆余曲折を経て目的地に到着しますが、登場人物間のドラマは思ったほど激しくはありません。ジャカルタから来た女性サラスは、容貌からすると華人らしく(演じたカリナ・サリムは実際に華人)、何か訳ありの模様、一方の地元マルクの少年サラワクはまだ小学生ながら自立心があり、姉に会うために直情的に行動、この対照的な二人にさらに姉の恋人カワヌアが絡み物語が進んでいきますが、最終的には落ち着くところに落ち着く感じで、予定調和で終わり、若干の物足りなさも感じます。マルク州セラム島でのオールロケ撮影、海も山も丘も家もすべてがおそらく自然光中心で美しく撮られており、ここぞとばかりに固定でのロングショットが挿入されるので、観ていて気持ちは良いのですが、その分、逆にドラマの希薄さが気になります。

ただ、この感想は、私が字幕なしで本作を観たことも関係しています。横山さんご指摘のとおり、サラスはジャカルタのくだけたインドネシア語口語、サラワクら地元の人間はアンボン語を話し、非常にリアリズム重視ではあるのですが、いかんせんアンボン語に精通していない私にはやや意味の取りにくい会話がかなりあって、そうした場面こそが本作の見所なのかもしれません。実は日本の大学で教員を務めている友人がセラム島で数年にわたりフィールドワークをして博士論文にまとめているので、彼の意見も参考にしながら、いずれ本作を再見して改めて評価してみたいと思います。

それから、ひとつ気になったのは、サラスとサラワクらの間で何の問題もなく「会話」が成立していることです。簡単な意思疎通はできても、単語にはかなりの相違があるように思えるインドネシア語口語とアンボン語を相互に話しながら、とくにコミュニケーションギャップが起きることもなく話が進んでいくのは、単に作劇上の設定なのかもしれません。しかし、別世界と言ってもいいほど互いの属性に距離感があるサラスとサラワクの不思議な関係性を描くのであれば、「会話」でははなく、もう少し「対話」があってもよかったのではないか。自分にとっての「他者」との関係を通じて自らの在り方を振り返る、一見地味ですが今の世界で求められているテーマだからこそ、とくに強くそう感じます。

『サラワク』ポスター。imdb.com より引用。

なお本作は、インドネシアではDisney + Hotstarで視聴可能です。字幕なしではありますが、画面いっぱいに広がる青と緑のコントラストはため息が出るほどの美しさで、未見の方にはできれば大きな画面で観ることをお薦めします。

横山さんご紹介のもう一本『墓参り』(Ziarah)の方ですが、どうもYOUTUBE にアップされていたのは製作者の許諾を得ていなかったのか、私がチェックしたときにすでに削除されていました。現在は、動画配信サービスBIOSKOP ONLINE のみで鑑賞可能なようです。残念ながらまだ観ていないのですが、以下予告編を見る限り、ほとんどジャワ語で話が展開するようですね。

『墓参り』予告編 https://youtu.be/Q5fnVq6YiJQ

セミドキュメンタリー的な劇映画なので、台詞をほとんどジャワ語にしたのはこの題材からは正解でしょう。もう一本紹介していただいた『靄の中の村』(Negeri di Bawah Kabut) はドキュメンタリーなので、こちらは逆にジャワ語でなくインドネシア語で話が進行していたら完全に嘘っぽく感じられていたはずです。

『墓参り』については、後日作品を鑑賞したうえで論じるつもりなので、断定的に書くことは避けますが、あらすじを確認する限り、本作は大枠では「独立革命戦争もの」というジャンルに分類されるようです。

言うまでもなく、インドネシアにとって独立革命戦争は公式的には誰からも疑義を挟まれることのない、まごうことなき大文字の「正義」に他ならないのですが、正史であるからこそ、これまで作られてきた映画を含む多くの物語は、公用語であり教育言語でもあるインドネシア語で語られてきました。その結果、本作の老婆のような小さな民の声、戦争に行ったまま帰ってこなかった夫をずっと待ち続け、墓の場所を何十年にわたって探す行為は等閑視されて語られてこなかったのではないか。老婆がインドネシア語ではなくジャワ語でぼそぼそと話すことの意味を、映画の主題と絡めて鑑賞後に考えてみたいと思います。

なお、BIOSKOP ONLINE はウェブブラウザーからのみ視聴可能で、モバイル専用アプリはまだないようです。ここでしか見られないインドネシア映画がかなりあるようで、『フンバの大地の女性』(Peremupuan Tanah Humba)というスンバ島を舞台としたドキュメンタリーを偶然見つけました。これについても後日報告したいと思います。

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さて、ここからが本題。今回は前回予告した通り、「インドネシア映画における言語選択の政治性」というテーマをインドネシア映画の起源にさかのぼって考察してみます。

このテーマを思いついたのは、前回第13信で紹介した『見舞い』や『シティ』のような映画、すなわち、単に地方を舞台にしているだけでなく、積極的に地方語そのものを物語の主題と結び付けている優れた映画が近年増加傾向にあることに気づいたからでした。ただし、こうした作品が増えている理由を1998年以降の民主化と地方分権の浸透のみで説明することは事態の半分しか語っていないとも言えます。別の言い方をするなら、「なぜ地方語映画は最近までほとんど作られてこなかったのか?」という問いが必要でしょう。この問いに答えるために、インドネシア映画データベースのfilmindonesia.or.idや各種資料を元に、以下インドネシア映画史をざっくり振り返ってみたいと思います。

後にインドネシアと呼ばれることになるオランダ領東インドにおいて、地元での製作による初の無声劇映画『ルトゥン・カサルン』(Loetoeng Kasaroeng)が上映されたのは1926年12月のバンドゥンでした。監督はドイツ人 L・ヒューヘルドルプ、撮影は欧亜混血人G・クルーゲル、そして出演者はバンドゥン県知事の子供たち、と記録にあります。

『ルトゥン・カサルン』1926年大晦日上映時の新聞広告。imdb,comより引用。

西ジャワの有名な民話を基にしたこの作品は無声映画でしたが、字幕はあったのか、あったとすればそれは何語だったのか気になるのですが、残念ながら私の調査では判明しませんでした。ただインドネシア人のローマ字識字率が当時は非常に低く、一説には1割未満とも言われるので、おそらくは費用から鑑みても字幕はなく、代わりに日本の弁士のように口上で映画の内容を都度説明する人が劇場にいたのではないかと想像します。それがスンダ語だったのか、インドネシア語と呼ばれる前のムラユ語だったのか、あるいはオランダ語だったのか、調査を継続していずれ報告できればと思います。

その後、上海出身のウォン兄弟やトーキー作品『チクンバンの薔薇』(Boenga Roos dari Tjikembang)を1931年に製作監督したテー・テン・チュンら華僑映画人たちが黎明期の映画界で活躍します。『チクンバンの薔薇』は、俗語が多く正書法も定まってなかった「市場ムラユ語」の小説及び大衆演劇が原作でした。また、1930年代に映画の原作となったのは同じくムラユ語の大衆小説「ニャイ・ダシマ」や義賊物語「ピトゥン」、あるいは中国本土の古典「西遊記」「白蛇伝」「梁山伯と祝英台」や当時人気を博していた武侠小説などでした。映画館が都市部にしか存在せず、また都市住民の多くは意思疎通を交わす共通語としてのムラユ語に通じており、それは同化度の高かったジャワ在住華僑たちも同様であったことからも、『チクンバンの薔薇』だけでなくおそらく多くの映画において使用されていたのはムラユ語だったろうと推察されます

1937年には、南海を舞台にしたハリウッド製ミュージカルを翻案した『月光』(Terang Bulan)が封切られ、マレー半島やシンガポールへも輸出されるほどの商業的成功をおさめます。以後、より多くの資本家が映画産業に参入するきっかけとなった画期的な作品だったと歴史家は指摘しており、その成功のカギは当時の流行歌クロンチョンを効果的に映画内に挿入したことにあるようです。

TERANG BOELAN - KRONTJONG ORCHEST EURASIA  1937。映画本編ではなく主題歌。甘美なクロンチョン音楽。https://youtu.be/e55pmP4zduM

残念ながら本作は断片しかフィルムは残っていません。しかし、この映画音楽を担当したのが、後に数々の国民的名曲を残すイスマイル・マルズキだったことは、当時の映画と音楽が密接な関係にあり、ともにインドネシア語の発展に大きく寄与したことを象徴している一挿話ではないかと私は思います。

その後1941年には、オランダ領東インドにおける映画製作本数は30本を記録しますが、日本軍の侵攻そして占領が開始されると、多くの映画制作会社は閉鎖となりました。ウォン兄弟やテー・テン・チュンらは別の事業を始めて映画産業から撤退、また混血俳優たちは日本軍の指導下において、大東亜共栄圏の理想を一般庶民に伝えるためのプロパガンダ大衆演劇「サンディワラ」の劇団へ移るなどして、それぞれ厳しい時代を生き抜きます。一方で日本軍はオランダの映画スタジオを接収してジャワ映画公社(のちに日本映画社)を設立、プロパガンダとしてのニュース映画や文化映画を多数制作しました。使用言語はインドネシア語のみの場合もあれば、日本語とインドネシア語のナレーションを交互に流す場合、あるいはインドネシア語字幕もつける場合など、様々なバージョンがあったようです。この時期には数本ですが、『闘争』(Berdjoang)や『クーリーと労務者』(Koeli dan Romoesha)などのインドネシア語のプロパガンダ劇映画も数本作られています。

Berdjoang - Film Propaganda Pendudukan Jepang Part. 01 HD。プロパガンダ劇映画『闘争』、日本語字幕なし。https://www.youtube.com/watch?v=yK6ceXjvmYk

日本軍は、啓民文化指導所の映画部門において、それまで映画制作の指導的立場からは実質的に排除されていた土着系住民(プリブミ)の演出家や脚本家を養成し民族意識を高めたほか、移動巡回隊による村落部での映画上映は、それまで映画を全く観たことのない人たちに映画体験の機会を与えました。日本軍がオランダ語を敵性言語として公の場から追放し、インドネシア語の使用を行政機関や報道において義務化、さらにインドネシア語の整備も進めた結果、それまでインドネシア語に親しくなかったインテリや村落住民の間にもインドネシア語が普及したとされています。実に様々なインパクトを残した日本軍政ですが、仮にその期間が3年半という短期ではなく、より長く継続していたなら、「日本語インドネシア映画」というジャンルも生まれていたのかもしれません。

Hideki Tojo Berkunjung Ke Jawa Tahun 1943 Bagian 2 HD。東条英機首相のジャワ訪問を伝えるニュース映画。日本語とインドネシア語相互のナレーション。スカルノの演説では日本語字幕つき、東条英機の演説ではインドネシア語字幕つき。https://www.youtube.com/watch?v=KgJ5H774trs&list=PL5ofKqQqUcQmTKgrkgr5Gmy43oZKARqfp&index=33

 

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