よりどりインドネシア

2020年10月07日号 vol.79

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第5信:「地方映画」の存在意義とは何か?(轟英明)

2020年10月07日 21:15 by Matsui-Glocal
2020年10月07日 21:15 by Matsui-Glocal

横山裕一様

第3信で私から投げかけた大きな問題、撮る側と撮られる側の関係性について、横山さんの経験を基に第4信では語っていただき有難うございました。映像制作の現場を直接には知らない私にとっては、大変参考になるご意見でした。

私としても『天使への手紙』が「中央」ジャカルタからの一方的な視点で「辺境」スンバを切り取った作品でないことはよく理解しているつもりです。例えば、冒頭の巨石曳きの場面は明らかにドキュメンタリー的に撮られており、また中盤の集落同士の騎馬戦は一種の再現劇ですが、どちらも地元住民からの協力と信頼がなければ撮れないことは明白です。また、女性に対する暴力やレイプ、殺人行為などの場面も現実の事件にヒントを得て映画のストーリーに組み込まれております。余談ながら、スンバ島における略奪婚事件が、以下のとおり数ヵ月前に報じられています。

https://www.bbc.com/indonesia/indonesia-53317050(略奪婚;スンバにおける結婚の為に誘拐された女性の物語『喉が枯れるまで泣いた』)

横山さんが第2信で言及済みの、同じくスンバ島で撮影された『マルリナの明日』においても、男性から女性に対する差別的な扱いと暴力が主題の一つであり、スンバ島における男尊女卑的な文化が『天使への手紙』にはある程度の正確さをもって表象されていると考えています。

そう、今までスンバ島を舞台に映画を撮ってきたガリン・ヌグロホやモーリー・スルヤ、そしてリリ・リザらは撮る側と撮られる側の関係性について十分自覚的なのだ、と彼らの諸作品を見てきた私は確信しています。彼らは安手のオリエンタリスト、中央から辺境を自己の都合に良いように切り取り解釈し全世界に提示して見せる輩、ではないでしょう。そして彼らの作品だけではなく、横山さんが前回紹介されたように、地方を舞台にした良質なインドネシア映画が近年増えています。2011年にインドネシア映画史を短い文章にまとめ、その際に将来の課題として「地方を舞台にした映画が少ない」と指摘した私としては、「地方映画」が増えている傾向は率直に嬉しいですし、大いに支持したいと思います。

⇒ https://ahmadhito2017.blogspot.com/2017/12/blog-post_21.html(インドネシア映画の過去・現在、そして可能性)

そのうえでなお、もはや「地方映画」が少なすぎることを嘆く段階はとうに過ぎ、その内実を厳しく問うべき段階にあるのではないかというのが2020年時点の私の考えです。

とは言え、地方映画とは何か、定義しないことには論が進みませんので、ここでは非常に大雑把に「ジャカルタ首都圏の外で撮られた、地方を舞台にした映画」と定義したいと思います。本来であれば、映画内で使用される言語や制作者や俳優の出身等も勘案して定義すべきなのかもしれませんが、これらの点については追々論を深めていく際に言及していくつもりです。また、地方映画という括りと一見似ているようで少し違う、「ローカル映画」という別個の概念もありますが、これについては後日の書簡で改めて語らせてください。

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やや抽象的な話になってきたので、ここからは横山さんが言及済みのリリ・リザ監督作品『フンバ・ドリームス』及び『ティモール島アタンブア39℃』を例に、地方映画の存在意義とは何か、論じてみます。

『フンバ・ドリームス』ポスター Imdb.com より引用。インドネシアでは動画配信サービスNetflixで鑑賞可能

『フンバ・ドリームス』のあらすじについては、すでに横山さんが第2信と第4信で述べられているので、ここでは繰りかえしません。横山さんがおっしゃるように、リリ・リザ監督は『天使への手紙』に対する返歌としてこの作品を撮ったという見方に私も同意します。本連載の第1信で私が取り上げた『ゴールデン・アームズ』制作のためにスンバ島に長期滞在した時の見聞や経験が、本作に生かされていることは間違いありません。ただし、でき上がった『フンバ・ドリームス』という作品には非常に納得がいかないものを私は感じています。端的に言って不満であるということです。

『フンバ・ドリームス』の何が私にとって不満だったのか?

第1に、主演二人を地元のスンバ人から起用しなかったことで、映画内リアリティのラインが下がっていること。ジャカルタから帰郷したマルティンを演じたJS・ハイレンも、出稼ぎ中の夫の安否を待ち続けるアナを演じたウリー・トリアニも、明らかなミスキャストというわけではありません。会話主体で物語が進行するのではなく、ビジュアル重視で音声は最小限、ジャカルタのような大都市とは異なる生活リズムをカットとカットの繋がりで表現する演出手法に、主役二人は見事に応えていると思いますし、微妙な感情の揺らぎを的確に表現しています。

が、二人以外は地元民が主に演じているため、明らかに容貌や言い回しや言語が異なる二人はやや画面から浮いているように見えます。リアルなようで非常に嘘っぽく見えてしまうのです。国営アンタラ通信の短い記事によると、当初プロデューサーのミラ・レスマナと監督のリリ・リザは、地元民を主役に起用することを検討していたようですが、時間の制約と複雑な人物設定からこのアイデアを放棄したとのことで、当初の構想どおりであれば全体の印象は相当異なったものになりリアリティが格段に増したはずで、残念でなりません。

第2に、主役二人の行動原理と人物像に理解しがたい部分があること。どこか突き放した本作の語り口からして、観客を登場人物に感情移入させるつもりがないことは理解できますが、幼少時に馬に乗っていたマルティンが帰郷時にはただ馬を撫でるだけ、乗ろうとする場面すらないのは極めて不自然なことです。物語の中盤で、父が残したフィルムの現像を諦めてメモを捨てた直後に彼のバイクが故障して動かなくなるものの帰宅したら正常に戻る一連のシークエンスは、彼自身がもはやスンバの伝統的な生活と慣習から途絶している都会人であることを意味しており、なるほど彼が馬に乗ろうとする素振りすら見せないのは自然なのかもしれません。が、伝統と出自への回帰というその後の展開を踏まえると、スンバ人のアイデンティティと誇りを象徴する馬に主人公が乗ろうともしないことは理屈に合わないように思えます。

また、彼は年上で人妻のアナに惹かれてラストではその想いを遂げますが、その視線は覗き見と同質で、非常に一方的なものです。要はストーカーであって、それ自体は若い男性の性的衝動のありふれた表象にすぎないのですが、理解しがたいのは、夫の事故死を知った後のアナが何の感情も見せずにマルティンの想いに応える点です。映画とは省略を駆使した芸術形式ですが、この場面はただの説明不足にすぎず、唐突に終わるラストを含め監督の意図がやや測りがたいものになっています。アナをマルティンにとって、ただの都合のいい女として描写する意図が私には理解できません。

第3に、制作者の地元社会への関与が中途半端なように見えること。映画内では現在のスンバ社会において出稼ぎ者の存在が常態化しており、伝統宗教マラプとの兼ね合いもあって公的書類が不備のまま出稼ぎに行き行方不明になる、などの問題に触れていますが、やや浅い描写に留まり、問題提起としては弱すぎる印象です。

『天使への手紙』同様、本作にも伝統儀礼の場面があり、その様子を古いカメラに収めるマルティンの姿は伝統の継承を意味しているものの、そこから先について、つまりどうやって伝統儀礼そのものを維持していくかという問題には本作は何ら触れていません。むしろ、8ミリカメラとそのフィルムの現像方法あるいは手織りのイカットなど、余所者である制作者の古きものへ郷愁が、控えめではあるものの表明されているだけではないでしょうか。第4信で横山さんは本作を「地方回帰、人間関係を含めた伝統継承の重要性を呼びかけた作品」と評されていますが、私には巧妙に問題を回避して観客に郷愁の心地よさを感じさせるところで終わっている、極めて中途半端な作品であるように思えます。

異国情緒(エキゾチシズム)が空間軸における評価の一つならば、郷愁(ノスタルジア)は時間軸における評価の一つであり、ともにオリエンタリズムに誘惑されやすい要素を含んでいます。海外あるいは自分が属している社会とは異なる文化圏を旅行して「ああ、エキゾチックだなあ」「この感じは懐かしいなあ」という感情自体は誰であれ抱くものですが、問題はそうした評価を無自覚かつ安易に映画に適用すると、植民地主義と大差ない言説が出現しかねないことです。私はこれをオリエンタリズムの罠と呼んでいます。

ただし、本作がそうした罠にはまらないよう慎重に撮られていることは、全体を通して観ればもちろん容易に理解できることです。また、現地社会で今起きている問題に深く介入しないというのも、記録映画とは異なる、劇映画の制作においては妥当な姿勢と理解できます。第3信ですでに述べたように、撮る側と撮られる側の関係性という難問に唯一の正解はありません。しかしながら、本作においてはその制作スタイルと非商業的内容から、より突っ込んだ描写が十分可能だったはずで、非常に残念な思いが残ります。ひょっとしたら、脚本と完成した作品の間にはかなりの相違があるのかもしれませんが、本稿執筆時点では不明です。

以上、リリ・リザ作品のファンである横山さんにはだいぶ辛口に聞こえるかもしれませんが、私の率直な考えを述べてみました。ただ、上述のアンタラ記事によれば、将来の計画として、ミラ・レスマナはスンバでの映画ワークショップを通じて現地の才能を育成し、彼ら自身の視点による物語が生まれることを期待しているとのこと。私の不満はスンバ出身の映画人が自分たちの手で映画を制作公開しない限り解消しない、ないものねだりの可能性もあります。

とは言うものの、ミラ・レスマナとリリ・リザならもっと良い作品ができたのではないかという疑問は私の中から消えません。なぜなら、彼らはかつて『ティモール島アタンブア39℃』(原題 ATAMBUA 39 DERAJAT CELSIUS)という極めて良質で誠実な地方映画を制作公開しているからです。

『ティモール島アタンブア39℃』ポスター Imdb.com より引用。インドネシアでは動画配信サービスVidioにて鑑賞可能

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『ティモール島アタンブア39℃』は、一応インドネシア国内で2012年に劇場公開されていますが、何から何まで異色の低予算映画だったためか、公開当時さほどマスコミの注目を集めることはなく、国際映画祭ですらそれほど評判にならなかったようです。横山さんもおそらく未見ではないのかと思うのですが、如何でしょうか?私は公開当時、非常に幸運なことにブカシのシネコンでほとんど貸し切り状態で観たのですが、それまで良質な商業作品を次々に送り出してきたマイルズ・プロダクションが全く違うスタイルのインディーズ作品を制作公開したことに率直に驚き、何よりその野心的な試みと心意気に感心しました。

では、『ティモール島アタンブア39℃』の一体何が野心的で、何が私を感心させたのか?

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