よりどりインドネシア

2020年09月07日号 vol.77

往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第4信:地方舞台の映画の意義(横山裕一)

2020年09月07日 23:17 by Matsui-Glocal

轟(とどろき)英明 様

ガリン・ヌグロホ監督作品、『天使への手紙』(Surat untuk Bidadari)のご紹介ありがとうございます。観ごたえある作品ですね。轟さんもご指摘のように、まさにリリ・リザ監督の『フンバ・ドリームス』(Humba Dreams)は『天使への手紙』に対する返歌(アンサーソング)的な意味合いを持つものだと感じました。

金にものを言わせて横暴を繰り返し、家族や集落習俗を壊す「地方ボス」に敵愾心をあらわにする一方、失った母親の面影を追い求めながら女性にポラロイドカメラのレンズを向ける少年(天使への手紙)。一方、ジャカルタでの都会生活に染まったものの、久々の帰郷で亡くなった父親からのメッセージから親子や故郷を持つ意味、大切さに気づき、スンバの人々、風景をフィルムに収め始める青年。そしてスンバの女性への愛情に目覚める(フンバ・ドリームス)。

『天使への手紙』が近代(経済)化による地方伝統社会の崩壊への警鐘であれば、約30年後の『フンバ・ドリームス』は地方回帰、人間関係を含めた伝統継承の重要性を呼びかけた作品であるのかと。こう考えたとき、幾分しり切れとんぼで終わった印象だった『フンバ・ドリームス』ですが、やはりこの終わり方でよかったのかなと思えるようになりました。

さて、前回の轟さんからお問合せの、「撮る側と撮られる側の関係性」「中央と地方との関係性」についてですが、私は自身の取材経験から考えを述べさせていただきたいと思います。

轟さんご指摘のように、『天使への手紙』は、物語はフィクションでありながら、ドキュメンタリー色の強い面も持つ作品だと思います。また、フィクション部分でも、本来スンバで起こりうるドキュメンタリー的要素がふんだんに盛り込まれていたと思われます。多数の地元住民の方が出演していることもそうですよね。

『天使への手紙』に関して言えば、私は第三者(外部の者)が意図(テーマ)を持って撮影したからこそ成り立った作品だと考えています。第三者だからこそ発見できるその地(ここではスンバ)の特徴、優劣含めた特異性、地方が抱える問題点などを俯瞰して鑑み、映画作品というメディアを通して訴えたいことを一般化する。逆に言えば、第三者が現地の実情を消化したうえで表現した作品であるからこそ、現地の人々の代弁も含めて、一般(鑑賞者)も受け入れやすくなっているのではないかと思われます。もちろん、この過程においては、第三者である制作者側は撮影地域、そこに住む人々対して知識を含めて深く理解すること、撮影・取材対象者との信頼関係を構築することは必要不可欠です。

私も、かつてドキュメンタリー番組を制作するにあたって元職場の先輩からよく言われたのが、「取材対象者にカメラの存在を忘れさせることはできない。大切なことはカメラが回っていることを意識したうえでも、本音を喋ってもらえるようになる信頼関係づくりである」ということです。取材対象者の家庭、プライベートな部分にまでカメラを持ち込むには、取材者と取材対象者との信頼関係なくしては成り立ちません。そのうえで、取材対象者の心の声、本音を口にしてもらう、仕草を見せてもらうには、さらなる信頼関係、相互理解が必要となってきます。

映画とドキュメンタリー番組では違いもありますが、おそらくガリン・ヌグロホ監督も度重なるリサーチ、取材を行い、住民との密な会話が繰り返されたと想像されます。そこには新たな発見、事前に持っていた考えと事実の相違点などもあり、シナリオから撮影対象、映像構成には大きな修正が何度も繰り返されたのではないかと。実際にカメラが回る前に費やされた時間は相当なものだったかと思われます。

こうした手法、過程さえ慎重かつ確実に行われれば、「中央」(撮る側)の論理による一方的な押し付け、「地方」(撮られる側)映像の一方的な搾取は極力回避できるかと思われます。「撮る側」と「撮られる側」での関係性は、どんな場合でも完全な一致はしないものの、同作品を鑑賞した限りでは地元の人々と信頼関係・相互理解が構築された上で、作品が取り上げた問題点、主張、現地の代弁が両者共有のものとして表現されていると感じられました。

その意味で、轟さんが引用された評論文の指摘は、一概に同作品には当てはまらないようにも思えます。また評論のなかで、映画作品『鏡は嘘をつかない』(Mirror Never Lies)について、撮影現地の美しく平和な表現のみで、現実に直面する開発による自然破壊が描かれておらず、「中央(撮る側)」の一方的なイメージによる現地把握の姿勢であると指摘されています。私は同作品を観ていないので断言はできませんが、映像表現、作品作りの一つの手法として、あえて美しい自然や環境のみを強調して表現することで、その背景にある開発や自然破壊への危惧を逆説的に訴えることもあります。

客観的な立場で構築されるといわれるドキュメンタリー作品でさえ、特定の地域や事象、人物などを取り上げた段階ですでに選択が行われていることにもなり、作品で訴えたいテーマなり主張を反映していることに通じることになるかと思います。日本でもNHKを始め民放テレビ各局、とくに地方局では、番組間の短時間枠や深夜枠などで美しい自然や動植物のみをBGMとともに紹介する番組がありますが、これも同様の手法によって同様のテーマ、狙いが込められているものが多いかと思われます。以上、轟さんへの的確な返答にはなっていないかと思いますが、こんなところでご容赦ください。

前回からスンバ島を舞台にした何本かの作品を通して改めて感じたことは、ガリン・ヌグロホ監督、リリ・リザ監督に限らず、インドネシア映画には地方を題材にした魅力ある作品が多く、さらに近年増えてきていることです。一方、ジャカルタが舞台でも、華やかなセレブ世界の恋愛ドラマだけでなく、厳しい都会の片隅で生き抜こうとする人々を描くような「ジャカルタ地方」の魅力的な作品も見受けられます。

そのなかで今回取り上げたいのは、2014年、インドネシア映画祭の最優秀作品賞を獲得した『東方からの光:私はマルク』(原題:Cahaya dari Timur: Beta Maluku / 2014年公開)です。同作品は1999年1月から約3年間続いた、マルク州アンボンを発端としたキリスト教徒とイスラム教徒との武力抗争(宗教抗争)を背景に、抗争当時から終結後までのアンボンが舞台となっています。

同抗争では、当時のマルク州全域(現在のマルク州、北マルク州)に飛び火し、地元報道では死者は1,300人余りとも約3,000人ともいわれています。当時、抗争発生の翌週、私も取材で現地に入りましたが、アンボンの街の中心部では大通りにバリケードが張られ、双方が対峙して一触即発の緊張した状況でした。また、周辺の集落の状況を撮影するため警察のヘリコプターに同乗しましたが、森の中に点在する集落はどこまで行ってもことごとく焼かれ、教会やモスク、家屋から炎や煙が立ち上っていました。ビデオカメラのファインダー越しに、まるでベトナム戦争映画の風景を見るようでいたたまれない思いをした覚えがあります。

『東方からの光(Cahaya dari Timur)』のDVDジャケットより

 

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