よりどりインドネシア

2020年02月24日号 vol.64

指導者は他の宗教で挨拶してもよいのか ~挨拶の変遷と「サラーム・パンチャシラ」提案~(松井和久)

2020年02月24日 22:28 by Matsui-Glocal
2020年02月24日 22:28 by Matsui-Glocal

皆さんは、インドネシアでなにかの会議に出席されたことがあるでしょうか。会議に出席するインドネシアの方々は、話をする前に必ず挨拶をします。どんな挨拶をしていたか、覚えていらっしゃいますか。

多くの場合は、大きな声で、Assalamualaikum warahmatullahi wabarakatu(アッサラームアライクム・ワラッフマトゥラヒー・ワーバラカートゥ)というのではないでしょうか。これは、イスラム教による挨拶で、「アッラーの救いと慈悲と祝福であなたに平安がありますように」というような意味です。この挨拶に対しては、Wa alaikumsalam(ワーアライクムサラーム)「あなたにも平安がありますように」と返すのが一般的です。

インドネシアは人口の9割近くがイスラム教徒であることから、彼らイスラム教徒が挨拶で使う上記の言葉が、おそらく最も一般的でないかと思います。

でもインドネシアは、イスラム国家ではありません。他の宗教の人々もいます。正式に宗教と認められているのは、イスラム教以外では、カトリック教、プロテスタント教、ヒンドゥー教、仏教、儒教です。ではこれらの宗教の人々の場合、どのように挨拶をするのでしょうか。

たとえば、キリスト教徒の場合は、カトリック教でもプロテスタント教でも、Salam Sejahtera bagi Kita Semua(サラーム・スジャットゥラ・バギ・キタ・スムア)「我々すべてに繁栄がありますように」といった挨拶が行われ、その後にShalom(平和を!)という言葉をつけることも少なくありません。

バリ島などでのヒンドゥー教徒の場合は、Om Swastyastu(オム・スワスティヤストゥ)「神のご加護のもとに皆が平安でありますように」という挨拶が行われます。

仏教徒の場合には、Namo Buddhaya(ナモ・ブッダヤ)「御仏を称えよ」と挨拶し、儒教徒の場合には、Salam Kebajikan(サラーム・クバジカン)「美徳だけが神を動かす」という挨拶になります。

現在のジョコ・ウィドド(通称:ジョコウィ)大統領は、どのように挨拶しているでしょうか。彼はイスラム教徒ですから、当然、Assalamualaikum warahmatullahi wabarakatu(アッサラームアライクム・ワラッフマトゥラヒー・ワーバラカートゥ)と挨拶すると考えられます。

ところが実際には、Assalamualaikum warahmatullahi wabarakatu(アッサラームアライクム・ワラッフマトゥラヒー・ワーバラカートゥ)、Salam Sejahtera bagi Kita Semua(サラーム・スジャットゥラ・バギ・キタ・スムア)、Shalom(平和を!)、Om Swastyastu(オム・スワスティヤストゥ)、Namo Buddhaya(ナモ・ブッダヤ)、Salam Kebajikan(サラーム・クバジカン)、とすべての宗教の挨拶をつなげてしています。

イスラム教以外の宗教でも挨拶をするジョコウィ大統領。(出所)http://theconversation.com/di-balik-imbauan-mui-soal-salam-lintas-agama-ada-ancaman-terhadap-multikulturalisme-indonesia-126950

最近では、この大統領スタイルをまねて、政府の高級官僚たちも、5つの挨拶をつなげて長々と挨拶の言葉をいう傾向が強まっています。

筆者の観察では、ジョコウィ大統領の前の大統領までは、通常、自分の宗教、すなわちイスラム教徒の挨拶をし、バリ島へ行ったときにはそれにヒンドゥー教の挨拶を加え、マナドなど人口の多くがキリスト教徒(プロテスタント教徒)のところでは、キリスト教の挨拶を加える、といった形だったと記憶しています。

また、キリスト教徒の地方首長がジャカルタなどの会議で挨拶をする際には、Assalamualaikum warahmatullahi wabarakatu(アッサラームアライクム・ワラッフマトゥラヒー・ワーバラカートゥ)と多数派のイスラム教徒に配慮するかのような対応を見せていました。

ジョコウィ大統領の5つすべての宗教に基づく挨拶をすることは、我々のような外部者からすると、まさに国是ともいえる「多様性の中の統一」を具現するものとして、好ましい印象を受けますが、それぞれの宗教者の立場からはどう見えているのでしょうか。

その一方で、ジョコウィ大統領が敢えてこのような挨拶のしかたを堅持している背景には、イスラム教の名の下に浸透した急進主義(ラディカリズム)への対応があるように見えます。

本稿では、こうした挨拶の背景にあるものを少し見ていきたいと思います。

(以下へ続く)

  • 全宗教を含む挨拶への反発
  • これまでの指導者らによるあいさつの変遷
  • 民族の挨拶「サラーム・パンチャシラ」の提案
  • たかが挨拶、ではない
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