よりどりインドネシア

2017年12月22日号 vol.12【無料全文公開】

アグン山のふもとで響く女性ガムラン(大島空良)

2020年04月18日 13:31 by Matsui-Glocal
2020年04月18日 13:31 by Matsui-Glocal

筆者は2012年からバリの国立芸大に留学をしており、卒業するまでの四年間、伝統音楽であるガムランを勉強してきました。

バリガムランはジャワ地方で言われるガムランと違い、竹、青銅、鉄など全く違う性質のアンサンブルをまとめた総称です。

バリではガムランはどこの村に行ってもほぼ必ずあるもので、コミュニティごとに同じアンサンブルでも調律が違っていたり、同じ曲でも教える人により微妙に異なったりする一切正解の無い芸能世界です。

主に宗教行事に演奏されることが一般的ですが、村のコミュニティ以外にも、ガムランのチームは様々な形態を持ち、創作や次世代の教育などで各自の腕を競います。

私は今、ガムラン活動を全くしておりませんが、今でもたまにガムランの音を聴きたくなって、最もポピュラーなバリガムラン、「ゴン・クビャール」の曲を聴いていると必ず思い出す村があります。

その村へ私を連れて行ってくれたのは、同級生であり、悪友であり、私にとっては留学生活を語るに欠かせない、カランガサム県のワヤンでした。

●デンパサールからカランガサムへ

私のクラスは入学当初59人、皆歳が近いなか、ワヤン一人が子持ちのお父さんで、まだ肌が白く言葉ができなかった私は、なんとなく周りから浮いている彼と勝手に親しさを感じていました。

ワヤンの年齢は大学の中堅の先生くらいあったことから、インドネシアの大学に今でも残る先輩の新入生シゴキでも、かなり甘く見られていました(余談ですが、このシゴキで私は丸坊主にさせられたり、全校生徒の前でドラエもんを歌わされたりと散々な目に合っています)。

しかし、彼はそんな状況にもあっけからんとしており、バリ語はおろかインドネシア語もままならない私につたない英語で「俺は2人の妻と3人の子供がいるんだ!」なんて自己紹介してきて、色々カルチャーショックを味わったものです。

そんな彼との出会いからまだ一か月も経たない頃、いきなり金曜日の講義終わりに「土日暇だろう?うちに来いよ」と誘われました。

とりあえず付いていくと言ってしまったが運の尽き、訳も分からず彼の先導するバイクに付いて行き、大学のあるデンパサールからおよそ片道二時間、ひたすら東に進みました。

まだまだ土地勘もなかったときですから、道幅がどんどん狭くなり、民家やお店が少なくなっていくところを運転し、まさか自分はこのまま売られるのではないか、と本気で警戒し始めた頃、とうとうアスファルトがなくなり、ただの山道になりました。

新品のバイクが赤土にまみれるのを感じながら、街灯もなくなったのを感じた頃、彼の家に到着。

そこは、豚や鶏などの家畜の声が絶えない小さな古い家でした。

彼が住むのは、カランガサム県アバン郡ダタ村。バリ人もなかなか知らない小さな村です。

自分の場所を確認しようとして携帯を取り出したところ、圏外。

今でこそある程度は繋がるようになったそうですが、当時、彼の家には一切携帯の電波が入らないような、バリの真の田舎でした。

お寺のお祭りのため、村人たちで準備をしている様子

かつては、普通の村々のように多くの演奏家がいた地域でしたが、後継者が減り続けました。ワヤンは、この村のガムランを絶やさないため、単身お金を工面して、ほぼ毎日片道2時間をかけて、ガムランの勉強のため、大学へ行っていたのです。

●土埃の向こうの異世界

薄霧のかかるアグン山が、ワヤンの家のすぐ後ろにそびえていました。その姿は、元々信仰心の類が薄い私でも不思議な圧力を感じるもので、バリ人の信仰の聖地となっていることが頷けます。

その日、ワヤンは私にバリの伝統装束を着せて、村のお寺のお祭りへと私を連れ出しました。

繰り返しますが、そのときまだバリの文化、とくに宗教行事に馴染みのない私は全てが新鮮でしたが、ここの風習はまた特別なものであることを後から思い知ります。

供物はすべて緑や茶色など、お世辞にも色映えがあるとは言えず、すべて庭で獲れたものであることは一目瞭然。

闘鶏で負けた鶏が半分首の落ちた状態で私の元へ走って来たり、私のことをジロジロ見る村人が犬や豚を肉として捌く一部始終を観たりと、それまでの私の知っている世界から遠くかけ離れたものを見ることになりました。

この村のどこにこんな人口が、と思うくらいの人混みは土埃を巻き上げ、さらに異世界感を演出させていました。

しかしワヤンが本当に私に見せたかったものは、その村のガムランでした。

驚くことに演奏家は老人が多く、その曲は素人が聞いても上手とは言えないものでした。

そのなかで、ワヤンは自分より何十年も年上の老人をまとめ、大げさに曲の抑揚を体で表現しながら、一座をまとめていました。

途中で楽器の一つを私に持たせ、戸惑う私に、タバコを咥えたおじいさんの一人が身振り手振りで指導をしてくれましたが、真似をするのにも精一杯でした。このおじさんたちとちゃんと演奏できるようになりたいと、それから私も真剣に勉強を始め、どっぷりとバリへと浸かっていったのです。

●ゴン・ワニタ - 女性ガムランチーム

興奮冷めやらぬ帰り道のバイクで、ワヤンは酷くなまった英語で「俺はこの村でガムランの女性チームを作るんだ」と言ってきました。

女性のガムランチーム自体はその当時からあるものですが、やはりバリのなかでもまだ多くないものでした。

生理中の女性は、神聖なものであるガムランに触れてはならないことなどから、昔の慣習に今でも強く縛られている傾向の強い地方では、女性のガムランチームを興すことは相当ハードルが高いものだったと推察します。

定期的に私は自らの意思でダタ村に行くようになり、ワヤンは私が村に行くと色んなところへ引っ張りまわしては「日本人を連れて来た、こいつはクラスメイトだ」と自慢して回りました。

彼は、村の小学生から高校生までの女の子を集め、簡単な曲から始めて、自身の作曲した曲を徐々に教えていきました。

今思えば、この女の子たちは皆、私と同じくらいのタイミングで始めたこともあり、一緒に勉強できることが楽しかったのもありますが、マネジメントのしかたや指導のしかたなど、彼の背中とチームを通じ学んだものが多くあることを感じます。

足りない楽器の演奏者は、少し歳のいった女性も参加することで補っていましたが、皆、学校や家事や家畜の世話等と並行していたため、あるタイミングから実力が伸びなくなってきたことを感じました。

また、ワヤンは、このチームと並行して色々なグループを教えたり、村々の行事のたびに演奏に呼び出されたりしていたため、まとまった期間の練習もできず、皆が一つになっていたとは言いたがいものでした。

最初のこの女性チームの演奏は、村の小さなお寺の演奏でしたが、できはなかなか酷いものでした。リズムはバラバラで、一人間違えると皆つられて間違え、何度も練習を重ねた曲の終了も半ば強制的に、といった具合でした。

私もここにヘルプとして入りましたが、なぜかこの演奏を悪く言う人は誰もおらず、むしろ、普段は誰も気にしないガムランに皆が目を張っていたことを思い出します。

腕前ではなく、ガムランを継承していくワヤンの情熱を観たことに感動した人がいたのです。

これをきっかけに、チームは村々で演奏の機会を重ね、ついには村の外でも演奏の機会をもらうまでになりました。

初めての演奏会でのリハーサル風景

途中、部活的側面が強い組織についていけないメンバーの入れ替わりがあったり、チームの実力の伸びに比例して厳しくなるワヤンに非難の声があがったりすることもありました。そんな一進一退が1年半ほどたったある日、ワヤンは突然、メンバーにバリ・アートフェスティバルへ出場することを告げました。

これは、毎年デンパサールで、ほぼ一か月ぶっ通しで行われるバリ最大の芸術祭であり、島内のみならず、皆が憧れる大舞台でした。

条件として与えられた課題の舞踊曲、選択式の楽曲と創作曲があり、ワヤンも外から指導者を探し出したりして、最初は半信半疑だったメンバーも、熱が入っていきました。

お寺での演奏など宗教的演奏行為と、アートフェスティバルというエンターテイメントとしての演奏は、バリ人にとってあまりにも意味合いが異なります。

大舞台の経験など全くのゼロに近い女の子たちが多い村では、毎日毎日空き時間を練習に使い、私も西に良い楽器屋があると聞いてはそのサンプルを村に持って行ったり、偉い人の前で演奏があると飛び出されてはその接待に付き合わされたり、新曲の新しいパートを作るためにワヤンと大学で作曲をしたりと、なかなか振り回されながらも楽しい日々を過ごしました。

本番2か月前、県の文化振興局の前での評価会ではとても厳しいコメントが投げかけられ、その様子を録画をしていた私も悔しさでいっぱいになりました。

それからほぼ毎日のように深夜まで練習を重ねたチームは、結果として大舞台に皆が胸を張って出場し、大きな歓声を浴びていました。

●アグン山噴火ハザードマップに村の名前が

1963年に起こったアグン山の噴火は、カランガサム県に大きな被害をもたらし、物理的被害以外にも、バリ社会に様々な影響を及ぼしました。

そして、先日のアグン山の噴火は、私にとって放っておけないものになり、しかもそのハザードマップの中にワヤンのダタ村の名前が! 私はそのニュースを見るなり、すぐにワヤンへ連絡をしました。

「村の皆は元気でやってるよ」

どうやら彼は家を離れず、火山灰が降る中まだダタ村で生活を続けているようです。

連絡をしてから数日後、急に彼から電話がありました。

「元気か?ジャカルタの仕事はどうだい、たまには遊びに来いよ」

笑ってしまうことに、彼の声の後ろからは、いつもと変わらないガムランの音が響いているのです。

音の記憶とは不思議なものです。別に彼は誰とどこで叩いているとは言っていないのに、私には、顔なじみたちがいつもと同じように、ガムランを叩いている姿がありありと浮かんだのですから。

卒業式前日、真ん中がワヤン、右に筆者

まだまだアグン山の鎮静には時間がかかりますが、ワヤンと彼女たちは今日もガムランを演奏していることでしょう。

(大島空良)

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