1万7,508個の島々に住む1,128種族が749種類の言葉を話すインドネシアは、世界有数の多様性に満ちた国家です。建国五原則(パンチャシラ)というふわっとした国家イデオロギーと、学びやすい国語であるインドネシア語を通して、国是である「多様性の統一」を実現してきました。
「他人と違うことはむしろ力なのだ」という人の多いインドネシアは、人と同じにすることを陰に陽に求められるような雰囲気の日本からすると、何でもありのまとまりのない国のように見えてしまうかもしれません。そんな「ごった煮」のようなインドネシアですが、人口の87%(2010年人口センサス)はイスラム教徒、一国の人口で見ると、世界で最もイスラム教徒人口の多い国でもあります。
インドネシアは、その国語を人口最多のジャワ人のジャワ語ではなく、貿易で使われていた海洋マレー語を基にしたインドネシア語にしました。多数派の意向のみを押し付けるならば、旧オランダ領東インド全体が一体化して独立国になることは難しかったからです。多数派の寛容が「多様性のなかの統一」を成り立たせてきたといってもいいかもしれません。
そんなインドネシアですが、このところ、イスラム教徒の一部が、多数派であるイスラム教徒の意向をもっと受け入れるべきだ、という主張を強め始めています。なかには、パンチャシラを止めて、イスラム法を適用すべきだと考える人々が増えていることを示唆するような報道も出てきています。そんな様子を象徴的に表したのが、昨年11~12月のジャカルタ首都特別州知事選挙に絡んで見られた、何万人ものイスラム教徒のジャカルタ中心部への動員でした。
選挙戦では、「イスラム教徒は非イスラムの指導者を選んではいけない」とか、「非イスラムの候補者を支持するイスラム教徒はモスクに入るべからず」といった話が聞かれました。これが単に選挙に勝つための方便であればよいのですが、こうした言説が現れる背景には、インドネシア社会の中で静かに進行してきているある深刻な動きがあります。それは、急進的な考えやISへの親近感を促す傾向ともつながり得ます。
この動きが、イスラムの排他主義とラディカリズムの源泉になっている可能性を見過ごすことはできません。そして、私たちは、そうした動きが決してインドネシアに特殊なものではなく、形を変えて、過去や現代の日本にも見られることに気づくはずです。
では、その動きとは何なのか。今回は、それに迫ってみたいと思います。
●パンチャシラよりイスラム法?
断食明け大祭(イドゥル・フィトゥリ)の前に出された週刊誌『テンポ』(2017年6月19~25日号)は、「保守派ムスリム:敬虔それとも過ち?」と題した特集を組みました。その内容は、なかなか衝撃的なものでした。
取り上げられたいくつかの調査で、多くの回答者がパンチャシラを拒み、イスラム法の適用を選好すると答えたのです。たとえば、2011年の国家科学院(LIPI)による調査は、ガジャマダ大学、インドネシア大学、ボゴール農科大学、アイルランガ大学、ディポネゴロ大学の5つの国立大学の学生を対象にしたのですが、実に86%の回答者が「パンチャシラではなくイスラム法を適用すべき」と回答しました。2016年の国立イスラム大学による調査でも、11県・市の高校でイスラム教を教える教師175人のうち、78%が「イスラム法の適用に賛成」と答えています。
これらの調査での質問のしかたが、「パンチャシラかイスラム法か」といった二者択一であった可能性はありますので、それを差し引いて考えなければならないのでしょうが、それにしても、「多様性のなかの統一」を体現するパンチャシラに対する不満が根強いことがうかがえます。
その裏に、汚職、貧困、様々な不平等といった、現実への不満や批判があることは明白です。既存の法律がそれらを正せない、正す機能を発揮できないのであれば、その代替として、イスラム法を適用するしかない、という気分がうかがえます。
かつて、インドネシアでは2000年代前半に、イスラム法の適用を求める声が高まり、イスラム政党がその声を背景に勢力を伸ばす勢いを見せた時期がありました。そのときも、上記のような、既存の法律や体制に対する不満があり、事件を起こしていたイスラム過激派への親近感さえ高まり、インドネシアがイスラム国家になったらどうするのか、といった議論が出てきていました。その頃の雰囲気と似たものを感じ始めています。
しかし、今回は、ある意味、あのときよりももっと深刻になっている気配があります。パンチャシラではだめだ、イスラム法を適用するしかないのだ、という教えが高校や大学で静かに広がっている様子がうかがえるからです。
●学校と宗教科教師の問題
学校でのいじめの問題は、決して日本だけの話ではありません。近年、インドネシアの高校などで、イスラム教徒の女子生徒でジルバブを着用しない子へのいじめや、大多数がイスラム教徒のクラスでの非イスラム教徒の生徒へのいじめが起こっていることが報じられています。
それだけでなく、イスラム教徒の学生に対して、学校がジルバブなどイスラム教に基づく服装の着用を事実上強制するケースさえ見られるようになっているといいます。子どもたちが自発的にいじめている場合もあるでしょうが、教師がそれを促すような環境を作っている面もあるようです。
前述の2016年に実施された国立イスラム大学による調査では、回答した宗教科教師の80%が同じ校内に非イスラム教徒の教師がいることに反対しています。同時に、学校のある地域に他宗教の施設をつくることにも難色を示しています。さらには、昨年のジャカルタ首都特別州知事選挙の前から、非イスラム教徒が指導者になることに多くの回答者は反対でした。
少なからぬ学校は、表向き、「宗教による差別や服装の強制などは行ってはならない」と主張しています。その一方で、教師のなかには、「生徒には国会議員になってイスラム法適用を実現してもらいたい」と言う者も回答者のなかにいたということです。宗教科は宗教の特徴を教える科目であるにもかかわらず、実際には、容易にイスラム法を教える科目へ変化してしまいます。また、他宗教も教える、学ぶという環境がなかなかできていないのも現実のようです。
高校の課外活動のなかには、イスラム教精神活動(Rohis)というサークル活動があり、これに属する生徒たちがジャカルタなどでの街頭行動に熱心に参加しているようです。2017年2月に行われたワヒド財団による調査では、このRohisに所属する1626人のなかで、イスラム国家樹立に賛成する者は41%で、将来、ジハードに参加する用意があると答えた者が60%に上りました。高校側はこうした状況を十分に把握して対応するに至らず、放置されています。そこへ、外部から特定の思想を持った団体が容易に入り込む結果を招いています。
●大学への外部勢力の浸透
高校や大学などへ積極的に入り込んできている特定団体の一つは、イスラム国家樹立を目指すとされるHizbut Tahrir Indonesia(HTI)です。HTIは1982年に国立ボゴール農科大学で設立されましたが、本格的に高校や大学へ入っていくようになるのは、2010年頃からです。
Hizbut Tahrir自体は1953年にエルサレムで設立されたスンニ派イスラム組織で、国際的なネットワークを形成してきました。HTIはそのインドネシア版です。しかし、その思想が過激であるとの理由で17ヵ国において活動が禁止され、インドネシアでも2016年10月に政府が禁止すると発表、その是非を裁判で争っている状況です。
HTIは大学を中心に宣教活動を広め、2011~2015年に国立パジャジャラン大学のIbnu Sinaモスク運営委員会を配下に収めるなど、着実に影響力を強めていきました。もちろん、大学在学中にHTIのシンパとなり、高校教師となった者も少なくないでしょうし、卒業した高校のRohisなどを活用して宣教活動を行っていくケースもあったことでしょう。
HTIはモスク運営委員会のほかに学生委員会へも浸透を図り、幹部ポストを取りに行くのですが、なかなか入り込めない大学もあります。そうしたところでは、HTIと名乗らずに、勉強会などの別組織を作って徐々に浸透していく、という手法をとっています。
たとえ政府がHTIの活動を禁止したとしても、こうした細胞を完全に叩くことは難しく、実際のテロ事件などを起こして表面化しない限りは、しぶとく残り、学校教育と絡みながらじわじわと浸透していく可能性が高いとみられます。
余談ですが、HTIの動きをみていると、日本の大学で学生運動セクトや新興宗教によるオルグの動きととてもよく似ている様子がうかがえます。
●イスラムへの理解度と過激思想への傾倒
これらの調査から明らかになった重要なポイントは、排他主義やラディカリズムを見せる教師や学生たちは、必ずしもイスラム教の基礎を深く理解している者ではない、ということです。
イスラム教を教える宗教科の教師の大半がイスラム教の基礎知識を得ているのは、モスクでの説教とインターネット情報だということです。実際、インターネットで情報を得る者と不寛容性との間に優位な相関がみられるという結果もあります。
一方、イスラム教の寄宿学校(プサントレン)での教育を受けてきた者は、イスラム教の基礎的な理解が深く、寛容性をもっており、「国の法律がイスラム法よりも優先する」という考え方をしっかり持っている、という結果が出ています。
●本質的な状況は私たちも同じではないか
インターネットなど、メディアの情報をもとにした知識に依存すると、白黒や勝ち負けを意識し、寛容性が低下する、そこにイスラム過激思想が入り込む余地がある、とするならば、それは、私たちの身の回りで段々に不寛容な社会になってきているということと、本質的には同じことなのではないか。
すなわち、イスラムにみる排他主義とラディカリズムは、イスラムだから特有なものではなく、実は、私たちが直面している状況と同じ環境がもたらしているものではないか。そんなことを改めて思いました。
(松井和久)
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